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2024年2月の記事一覧

紀元節 皇紀2684年 日本国のお誕生日 <依存性からの脱却(自主独立)>

2024年02月11日

 

 

晴れやかな本日は『紀元節』。2年前、北京冬季オリンピックの年にも同じ自タイトルの記事を書きました。

 

祝日法では『建国記念の日』は建国をしのび、国を愛する心を養う」(内閣府HP)となっています。昭和41年の祝日法改正により設けられた「国民の祝日」として復活した元(もと)祭日です。

 

祭日と祝日が曖昧になっていますが現在日本に祭日はありません。祭りは国民と切り離されたからです。祭りとは何かとうと宮中(皇室)祭祀ですから神道で行われるものです。国民も祭日として祝うことになっていたのです。これら神道と関連していた祭日は廃止され別の名前になっています。もっとも祝祭日の多くは明治に決められたものですからもう廃止になってからのほうが長くなりました。明治の人は日本の歴史上最強だと思います。堂々としています。ある人は当時の日本は民主主義ではないと言います。しかし何も決められず、曖昧な方針しか建てられない現在の民主主義をみると、これはこれで衆愚政治の過程のように思います。

 

連合国軍最高司令官(SCAP)総司令部(GHQ)は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という所謂、神道指令を出します。昭和20年、敗戦の年です。

国家と神道を切り離したのですが何故でしょうか。多くの人は天皇による専制的な戦前の体制が戦争を起こしたと教えられてそれを信じています。戦後の教育方針もGHQによってそう決められ日本人全体がそう思わされてきたのです。

 

もう戦後80年です。そろそろ日本人も目を覚ましたほうが良いでしょう。(遅いかもしれませんが)明治の人が描いた国家は間違っていたと占領軍から教えられました。それさえ忘れている日本人が多いですが、昭和20年9月2日から昭和27年4月28日までの7年間まさに戦後直後の日本は外国の勢力下におかれた自主権のない国だったのです。昭和23年の祝日法によって四大節は廃止になりました。祭日は祝日として名前も変わり本来の意味も解りません。日本国憲法は昭和21年の発布です。これらが日本国の日本国民の幸福のために外国が与えてくれたものだと思いますか、日本人が外国の影響を受けずに自分で決めたことだと思いますか。

 

普通に考えれば反対です。戦争直後と考えれば日本の力を削ぐ政策だったということは想像できるでしょう。その柱が国家神道の廃止。天皇と神道と政治と国民をバラバラにすることが目的だったと私は思います。戦後80年、戦前全否定を省みてもう一つの側面も知ってもよいのではないでしょうか。「分割して統治せよ」は古代ローマ帝国による支配地域の統治法のことですが、今でも占領政策の鉄則です。

小さな日本ミツバチでも纏めて行動するとスズメバチにも立ち向かう。日本とアメリカのようでしょう?

日本人は皇室の制度が残ったことで「国体護持」という最低の目的は守ったと敗戦時に思ったのでしょう。しかし天皇を象徴としてしまい最も大切な祭祀を表に出さず。天皇と国民との結びつきの手段である神道を国民から遠ざけ事実上分離しました。この分割によって日本は「自主独立できない国」になったのです。三島由紀夫はそんな国の方針により国民も劣化することを憂いていましたがその通りになりました。日本ミツバチの巣から女王バチがアクシデントでいなくなったら群が滅びるそうです。

 

<依存性からの脱却(自主独立)>は日本人伝えたい事です。いつも誰かが守ってくれて自分では何もしないかのような憲法の下で育った日本。現実には有事がおこっても外国は守ってくれないことがわかりました。自国で戦って防ぐしかないのです。次元は違いますが個人のレベルでも、これらの歴史的経緯も踏まえて自己判断するべき時が来ています。近いうちには無理のようですが将来もう一度日本の復興を期待したいと思います。

 

 

令和六年元日

2024年01月01日

 

令和6年能登半島地震」が発生しました。大変お世話になった皆様がいらっしゃいます。

お見舞い申し上げるとともに無事をお祈り申し上げます。

皇紀2684年(令和6年)元旦です。

日本晴れの年はじめとなりました。

「令和6年能登半島地震」が発生し内容を変更しました。

 

被災した皆様に心よりお見舞い申し上げます。

 

全ての皆様に今後は幸多き年になりますようお祈りします。

 

我が家の日章旗はここのところ車の配置の関係で

屋外に掲揚していませんでしたが

パイプで延長し車の屋根を超えてはためいています。

 

やはり国旗を掲揚すると身が締ります。

 

 

本年も年始のルーティーンを果たせ感謝します。

旧年中はたくさんの人に助けていただきました。

皆様にも感謝です。

 

年はじめは風は冷たかったですが気温は高い印象です。

今年も熱い一年になるのでしょうか。

 

歳神様をお迎えし氏神様に参り厄除大師でお札をいただいて聖天山で1日に行われる市で会社と自宅のだるまを買います。

 

だるまの買値は価格があってないようなもので

子供が小さいときは毎年安くしてくれるおじさんがいた

のですが今はほぼ言い値です。

 

年始めから細かいお金の交渉はしたくない。

そんな年齢になりました。気が付けば年男です。

 

また書き始めようと思います。

2023年12月17日

セミコンジャパン2023 多くの皆様のご来場ありがとうございました。

また新しい出会いに感謝申します。長く皆様に信頼される会社でありたいと思います。

 

30年前の活気がある華やかな頃のセミコンジャパン(展示会)を経験した人が少なくなってきました。

私たちの縁深い 岩瀨新午・鎌田晨平 両先生などは展示会の中心人物といってもよい黎明期の情熱から半導体に賭けた人たちでした。先生方がセミコンの会場で語り合う姿の重みは今のショーには感じられません。

 

展示会が単なる同窓会となって久しいですが、その同窓生たちの再会場所として役目も終わったように思います。

さあこれからは新しい希望と情熱を持って日本の産業を、世界の産業を立ち上げるというような大志を抱く若者が出てくることを願います。

 

工業系を志す人が減っているのは「モノづくり日本」の痛手です。神話同様、学校で教えない教育が大切です。働くおじさんというNHKのテレビを道徳の時間に見ましたね。手足を動かして働くことの価値もまた尊いということを、もう一度日本人全員が思い返さないといけません。

 

資源のない日本にとって「モノづくり日本」としての地位がどれだけ必要か。ようやく国も気が付いたようです。インバウンドも確かに良いですが。インバウンドの需要に対して日本が必ず必要なものではありません。TSMCを見てください。世界中が彼らを必要とし、分散してまでも近づく脅威から守ろうとしていますね。本来それは日本であるべきだったのです。かつてはその立場の最も近くにいたのです。

 

日本はそれを放棄してしまいました。確かに日本の素材が半導体や電子産業を支えている面もありますが優先順位は高くない。そういう戦術的なミスはプラザ合意や日米半導体協定だけが理由ではありません。さあ目を覚ましましょう。
天の岩戸を開くときが来たのです。

 

思えば令和4年の新嘗祭から記事が止まっていましたね。なぜかというと、書かけたのですが書く気にならなくなってしまったのです。完全に自分の気持ちの問題です。光明思想だの何だのといっても現実に何か起こった時に人間としての強さが分かります。人間としての強さを磨くことも人生の目的だと思ってまた書こうと思います。

 

書かなかった理由は 人工透析 それも 腹膜透析を始めることになったからです。遠い先のことだと思っていたことが案外早くやってきてなすすべなしでした。心腎連関 という言葉がある通り心腎は密接に関係していて一方が悪くなるともう一方にも影響します。

 

私の場合は腎臓 多発性嚢胞腎については遺伝で持っていることが30年前から分かっていましたが無責任な街医者の「ホクロと同じようなもの」という言葉に騙されて放置していました。40代後半 拡張型心筋症 になってしまい。投薬中に腎臓機能低下の数値が出るようになりました。心臓をとるか腎臓をとるか的な治療になっていくわけです。そのうち心臓には代替がないので腎臓を諦めましょうということになり早め(eGFR10を切った)に透析の準備をしました。

65歳までは普通どおりに働きたい」それが私の願いでしたので心臓の負担も軽い腹膜透析(PD)を選択しました。日本で透析を受けている人の3%が腹膜透析です。私の導入方法は段階的腹膜透析導入法(#SMAP)2回の手術が必要ですが私の場合2回目は通いにしてもらいました。腹膜透析は月1度の通院で済みます。機械を使う#APD(自動腹膜透析)は寝ている間に自動交換を複数回やってくれます。(接続やセッティングは自分で行わなければなりません)一方、機械を使わない場合は自分で落差による注排液を行うわけです。1日に2回交換ならまだしも3回になると時間的に厳しいですね。

(写真は12回での1か月分ですが床もつらそうです)

 

この箱の中に2000ml(約2kg)の袋が4つ入っています。1日2回なら2日で1箱 増えていくと置き場がなくなりそうです。腎臓は水分の調整だけでなく多くのホルモンの分泌や毒素の除去などをしていますから人工でそれを補うのは大変なことです。(無理です) 今現在私は心機能の補助のため水分が抜ける量と尿素窒素(老廃物)の値に注目してをモニタしています。(BNPとBUN)

正常値になるなどとは考えられないのでせめて許される異常の限界内で抑えたいところですが数儒種類の項目のほとんどがどんどん悪くなっていきます。現在、常時1,000くらいあったBNPは100くらいまで下がりましたが逆に脱水でNUNは90になってしまいました。人心連関の皆さんどうですか。

リタイヤした人が透析受けるのなら血液透析のほうが良でしょう。クリニックが沢山ある日本なら3%歯科腹膜が選択されないのも無理ありません。腹膜透析は単純ですがなかなか仕事をしながらやるのは大変ですが、埼玉県北部では夜中(オーバーナイト)や休日にやっている血液透析クリニックが全くありません。勤め人には支障があるでしょう。

 

顛末は来年の長い正月休みにでも書いてみますが、自分で申請して受け取った身体障碍者手帳の「1級要介護」の文字はショックでした。心臓を守るために透析を始めたはずがこの1年でさえいろいろありました。そんなことで記事は止まっていたのですが仕事は普段通りやっています。リモート会議が多くなって出張には行きにくくなりましたが打ち合わせもできています。

今回 セミコンジャパン2023 東京ビックサイトのため透析開始後初めて1泊してみましたが大変です。1泊でも段ボールを宿泊先に送らないとなりません。恐らく私の透析のやり方はお医者さんに怒られます。(不衛生)腹膜炎になったこともあります。しかしそうでもしないと社会人としての生活は成り立ちません。
12日でさえ段ボールに2Lの透析液3つと排液バックやキャップを送り、フロントで台車を借りて部屋まで運ぶ。

液は本来袋から出して温めてはいけないが時間がかかるので出してお湯に漬ける。温まったところで持参の紐とS時フックで袋を吊る。

毎回緊張の接続。固定側の先端に触れたりホコリが入ったら病院に直行。(これで腹膜炎になった悪くすると透析中止)横になり液が落ちるのを待つ。おなかの中に液があったら(連続投入の場合は)まず排液から始まる。終わった後の排液、ビニールやキャップの始末、なかなかの廃棄物の量です。

5時間以内に液は抜かなければなりません。(再取り込みがおこる) 家や会社でできることも出先では大変です。ちなみにビックサイトでも排液させてもらいました。本当はそんな展示会場などでやってはいけない(衛生的に)と思います。

腹膜透析は腹膜の機能の問題で順調にいっても67年しかできません。そのあとも生きようと思うなら血液透析。そうなったら週に2回は早退ですね。私は周りの理解もあって可能かもしれませんが果たして多くの現役世代はどういうおもいをしているのでしょうか。

 

 

今後は腹膜透析についても書いていきます。ついでに心臓のほうはEF20から改善の兆しはありません。ただ淡々と仕事をしていくだけです。

「新嘗祭」今は勤労感謝の日といいます。

2022年11月23日

斎庭稲穂(ゆにはのいなほ)の神勅(しんちょく)

 

『吾が高天原に所御(きこしめす)

 斎庭(ゆには)の穂を以て(もって)

 亦(また)吾が児に御(まか)せまつるべし』

《私の治める高天原に作る神聖なる稲穂をわたくしの子孫に授けましょう》

 

天孫(天照大御神の孫神)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国(なかつくに)降ろすとき授かった神勅の一つ。連綿と続く日本民族と稲作の関係を示す。

稲田は日本の象徴的な風景です。平地が少ない山野にも稲作は営まれてきました。営みとは連綿とした人生の繋がりです。私たち日本人は稲作を通して神に応えてきたのです。

神道排斥の戦後においては「勤労感謝の日」とされている今日、新暦の11月23日の元は「新嘗祭」であり、皇室はもとより日本全国の神社で「初穂を神にささげる」一年で一番大切な日といっても過言ではない神事が行われる時期です。工業交易が未達の時代。米の生育は死活問題です。気候や災害によって不作になれば何千何万という人が飢え死んでいきます。無事に米が収穫できるということは現代の価値では測れない意味のあるものでした。眞に神事なのです。

日本国内でなぜおいしいお米がとれるのでしょうか。日本の国土の中でも地方によって気候風土が異なります。その中でその土地にふさわしい稲穂が育ち米の収穫ができるのは神の御業と思われます。天照大神の「斎庭稲穂の神勅」をはじめに書きましたが、日本全国で神に渡された稲穂を守り育て感謝するということの繰り返しの中で品種改良が進んだのです。これを神意と呼ばずに何なのだろうと私は思います。

その年の初穂というのは、その土地で一番強く実った稲穂で、それを献上して翌年の種籾として苗を作った。毎年それを繰り返せば、その土地で最も強い種だけ残っていきますね。誰が考えたわけでもなく神に感謝する行為は自然に品種改良を進めるものだったのです。自然と神に感謝する行いから生まれることが大事だと思います。

 

今年も立派に穂が実りました。その感謝の気持ちを表して稲穂を神に献上します。我々は「勤労感謝」という言葉に置き換えられてはいますが勤労もまた神から与えられた役割だと考えた時。自分の意思とは異なる仕事に不本意ながら就いているとしても、神から与えられたものとしてその場で努力すれば、何かが開けてくるのです。同じようなことを、かの稲盛和夫氏も言っているのですから眞實です。

 

 

 

群衆事故に想う

2022年10月30日

「明石花火大会歩道橋事故」は2001年7月21日に市民まつりの花火大会の帰路、歩道橋で6700人の群衆によって起こった圧死事故です。

 

11人の死者の多くが子供でした怖く苦しかったことでしょう。昨日ソウルで150人が群集の中で圧死する事故がありました。

物質の豊かさと人間の心の豊かさは反比例するのでしょうか。時代が進んで豊かになったのになぜこのような事故が起きてしまうのでしょう。

 

神話を知らずに育つ日本人を心配して古事記の解説を書くと同時に近代の歴史も書いています。私たちは過去の歴史の上に存在して伝承する責任がある存在であり。虫のように湧いて生殖して死ぬわけにはいかないのです。

 

「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と本居宣長先生は詠みました。日本人は山桜の美しさが分かる心を持っているという意味です。日本に生まれたから日本人なのではなく。民族の歴史や生き方を知らなければ日本人にはなれないのです。

 

新渡戸稲造は120年前に武士道を書きました。ベルギーの法学者ド・ラブレー氏の私邸で日本の学校では宗教の授業なくしてどうやって道徳を教えるのだという質問の答えです。新渡戸稲造の妻のアメリカ人、旧名マリー(萬里子)へのメッセージでもあり英語で書いたのです。当の日本人である我々が今、翻訳して読んでいます。おかしな話です。

 

私は大東亜戦後の日本の教育が戦前の日本の行いを否定することから発していることに強烈な違和感を持っています。戦以前にあった多くの正しい道も否定して伝承されなかったことで日本の美徳は忘れらられ「足るを知る」心を失い誰もが「もっともっと欲しい」心を持ち、自由という名の分断の種を植え付けられました。

戦がなくてもすでに明治期に日本に来ていた外国人は欧米のもたらした文化によって日本の美徳である文化が滅びることを予言していました。以前にもあげた渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでください。明治人最強と私が言う日本人の美徳が残っていた明治が外国人の目線で語られています。新渡戸稲造が外国人に武士道を説いたように現代日本人に伝えられていないルーツを教えてくれます。

 

争いごとを好まない秩序ある子供を大切にした明治の人たちには「明石花火大会歩道橋圧死事故」などということが日本で起こったことが信じられないでしょう。なぜそうなったのか。明治文化が滅んだからです。滅びると言っても国がなくなるのではなく、多くの美徳は西洋を知ることで価値観が変わって日本らしさがなくなるということです。彼ら明治の外国人の予想した通りの展開になりました。

 「逝きし世の面影」から外国人が見た日本を転載します。第4章 親和と礼節のほんの一部です。たくさんの項目のうちの一部の中の更に一文。全体は購入して読むことをお勧めします。

 

明治20年初頭、伊勢参りの群衆を山田で見たパーマー氏(日本在住8年)

「この人たちは実に日本の大きな魅力である・・・幸福で礼儀正しく穏やかであり、温和しい声でいつもニコニコしながらお喋りをし、ちょっとしたことからも健やかな喜びを吸収する恵まれた素質をもち何時間ともなくトボトボ歩いてもあちらこちら見物しても、決してへばらない羨ましい身体と脚を持っているなど点で、日本の群衆にひけを取らないものがあると公言できる国など何処にもあるまい」「群衆の中にいる日本の警官は何もすることなどない」と彼には思われた。「日本の庶民はなんと楽天的で心優しいのだろうか。なんと満足気に、身ぎれいにこの人たちは見えることだろう」

 

以降の写真はすべて「ニューヨーク公共図書館」Digital Collections 公開画像より転載

エドワード・シルヴェスター・モース

隅田川の川開きを見に行くと行きかう船で大混雑しているにもかかわらず「荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず」ただ耳にするのは「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」の声だけだった。彼は書く。「かくのごとき優雅と温厚の教訓、しかも船頭たちから、なぜ日本人が我々を南蛮夷狄(なんばんいてき)と呼び来たったかが、だんだんわかってくる」「下流に属する労働者たちの正直、節倹、精錬その他、我が国において「キリスト教徒的」と呼ばれるべき道徳のすべてに関しては、一冊の本に書くこともできる」と彼は思った、また彼は相撲の見物人が「完全に静かで秩序的」であり「演技が終わって見物人が続々と出てきたのを見ると押し合いへし合いするものもなければ、高声でしゃべる者もなく、またウイスキーを売る店に押し寄せる者もいない」とこれまた米国の場合と比べながら記述する「日本人はあまり酒を飲まぬ民族」であり「今日までの所はでは千鳥足の酔漢は一人も見ていない」彼は日本で暮らしていた間にたった一度しか往来で喧嘩を見なかったという。しかも彼にはその喧嘩のやり方がとても珍しいものに見えた。二人はただ髪の引っ張り合いをするだけだった。見物人はモースひとり。道ゆく者は嫌悪と恐怖の情を示して避けてゆく。例によって彼はアメリカの場合と比較する。これがアメリカなら「誰でも知っている通り、老幼が集まって環をなし、興奮した興味を持って格闘を見つめ、ぶんなぐれば感心し、喧嘩が終わるか巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する」というふうに。モースは日本に数か月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって「自分の国で人道の名において道徳的教育の重荷になっている善徳や品性を生まれながらにして持っている」ここに気付くと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。

 

この本には、これらと異なる飲酒に関する習慣や事実もあることももちろん書かれてはいます。この後に続く記述には江戸時代には飲酒は習慣で武士の飲酒がもとでの悪徳も多くありましたが明治的禁欲生活に変化した数十年で飲酒に関する習慣が変わったようです。「火事と喧嘩は江戸の華」も喧嘩の中身を知ると相手を完膚なきまでにやっつけるようなものではなくコミュニケーションの一つのようにも思えます。とにかく明治日本人最強説の私の論拠の一つです。

 

昭和の初期の記載になると東京に住んでいたキャサリンサンソムが電車に乗り込む際に我先に他人を押しのけて乗り込もうとする年配の女性のことを書います。

私は現代の初売りのデパートでの初売りの時の姿を想像しながら、やっぱり明治だなあと改めて思うのです。

引用を続けます、明治7年に来日したディアス・コバルビア

「日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。・・・・  その他多くの機会を通して横浜、神奈川といった人口6万から7万の都市で国民が喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会に恵まれた。どの祭り場でも通りで酔っ払いに会ったことがなかった」

 

明治12年グラント将軍に随行したJ・R・ヤング 上野での歓迎会当日の群衆について

「人だかりの中で目に付くものといえば、一般大衆の快活さとはしゃぎぶり、にこにこしている顔、娯楽好きな眼である。さらに気づいた点は、よく行き届いた完璧なまでの秩序と親切とやさしい感情である。・・・・群衆の快活さとがまん強さには終わりがないように思えた」 パーマーも明治22年の憲法発布祝賀行事の当日において同じような感想を抱いた。「群衆の振る舞いも日本独特で、見ていてとても楽しい。こんな時に喧嘩はつきもので必ず起こるのだが、東京の町々を今夜歩きまわっている夥しい群衆の実に我慢強く丁重で機嫌がよいことは日本以外には見られないと思われる」これらの記述を明治政府の強力な統制を示す資料として受け取りたい向きもあろう。しかし祭りの際の群衆の秩序については、ルドルフ・リンダウ(ドイツ人スイス通商調査派遣隊)の古い証言がある彼は文久元年に「長崎の守護神祭」を見物したが「静かで争いのない群衆であった」と書いている。

 

街には異常な活気がみなぎっていたが、同時に「完全なる秩序」が保たれていた。祭りの秩序は警察によって保たれているのではなかった。イザベラバードが明治11年に秋田土崎港の祭りを見て書いている「警察から聞いたところでは、港には2万2千人のよそものが来ているとのことだ、しかし、祭りを楽しんでいる3万2千人に対して、25人の警官の一隊で十分なのだそうだ。私は午後3時に立ち去るまで、酒に酔っているものは一人も見なかったし、乱暴な振る舞いや無礼な振る舞いを一例も見なかった。群衆に乱暴に押されることもまったくなかった。というのは人々がひどく込み合っているところでさえ、人々は自分から輪を作って、私に息のつける空間を残してくれたのである」

 

これも文中にあるように外国人観察者は日本人の庶民から見れば一種の貴人としての扱いであったとも取れます。しかしバードの言うように日本人の集団のみをみてもその中での日本人が「静かでおとなしく、彼ら自身の間でも押し合いもへし合いもすることはなかった」というのもまた事実です。

明治7年当時 東京外国語学校で教師をしていた革命家レフ・イリイッチ・メーチニコフ

「江戸でも一二を争う劇場は大勢の庶民ですし詰めで、女は胸をはだけて赤児に乳を飲ませ、男たちは下帯一本の裸というまことに「デモクラティック」な有様であるのに「そこには何の混乱も押し合いもなかった」彼はいう「この国ではどんなに貧しく疲れ切った人足でも、礼儀作法の決まりから外れることがけっしてない。・・・私は江戸の最も人口の密集した庶民的街区に二年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。ましてや喧嘩などこの地でほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ」

 

ジョルジュ・イレール・ブスケ

「大川を横切っているくつかの木の橋の上から見下ろすと、船が上げ潮にのって帆を広げてゆっくり進んで来るのが見える。船頭すなわち水夫の組合は、労働者連中のなかで最も感心できないものの一つだそうだ。しかし今は粗野な様子も示さずに船を操り声を掛け合っている。罵倒することは下級階級でも極めてまれである。・・・本来の意味での喧嘩、口論、乱暴は決してない。我が国の意思が思想にしている群衆が常に見せているあの激しさや気忙しさを思わせるものは何もない」大川の花火の時でさえ、引け時の混雑を抜け出そうとする船々は「強くぶつかりあうことも粗野な言葉を交わすこともない」

引用は以上ですが、この本の中には「こどもの楽園」という章もあり、日本の子供が世界一幸せそうに見える。大人に大切にされてのびのび生きている様子が描かれています。「明石花火大会歩道橋圧死事故」での犠牲の大半は子供でした。いつから日本はこどもの楽園ではなくなってしまったのでしょうか。無邪気な子供も減ったのですが、何より無邪気で且つ子供を大切にする大人が減ったと思います。

日本人の特徴は邪気がないこと。これを無邪気と言いますが大人も子供も邪気が無かったことが外国人から見た日本人の姿として書かれています。逆説的に言えば現在人には邪気がありすぎる。無邪気ではいられない世の中になってしまったのでしょう。無邪気なおとぎの国の日本は滅んだのですが、物質文明に対抗する価値観を持つ日本の萌芽を個人的に期待します。「温故知新」過去を知って新たに踏み出す時期にきているのではないでしょうか日本は日本の価値観のままで良いのです。他の国の真似をすることはないのです。

 

子供や女性を大切にする。本当の平等とは、差別なくして区別ありの事。日本の子供を大切にする文化がなぜ廃れたのか。日本人として反省しなければならないと思います。先の戦で先人が守りたかったものは国家ということになっていますが、不可分一体の子や妻や親、地域が先にあったと思います。それが日本の美徳ではないでしょうか。

 

 

 

 

私の「人生の羅針盤」

2022年10月22日

若い時は自分の立ち位置や向かうべき道が分からなくなることがありますね。私はそんなとき、先人の生き方を参考にします。今回は私の「人生の羅針盤」のお話です。

 

科学の発達は人間に幸せをもたらすのだろうか。人間から人間らしさを失わせる、或いは人間であることの意味さえ無くしてしまうのではないか。人生が無機的なものになってしまわないか心配です。

物理学は今後、暫く「量子力学」が研究の中心になるでしょう。

今年のノーベル物理学賞の「量子もつれ」は光の速度を超えるものは存在しないというアインシュタインの相対性理論に合致しない現象です。

この量子の「粒であり」「波(波動)」である性質は大変不思議で。2方向スピンの中間状態をもつことから0-1のトランジスタコンピュータとは別の次元の高速計算をもたらすこと。量子の「2重スリット実験」から「観測しているときと非観測状態で異なる結果を生じる」こと。(量子に意思があるかのよう) 月と地上ほど離れたところでも同時にある現象が起こる「テレポーテーション」 。大栗博司博士の説によると、この3次元の世界で起こることは全て、その外側の2次元の面に素粒子の原理で書かれているという理論(予言性)などは何れも、かつては非科学の領域であったものの解明であり、私のような非科学的な人間にとって、神秘性が失われていくような。非科学の皮が科学によってめくられていくよう少し寂しい複雑な心境になります。

 

やがて私の記事の幾つかも科学的な常識になるのかもしれません。その前に古典的日本人として今は神秘性をもって読んでいただけるような記事を残しておこうと思います。

 

潜在意識を用いた引き寄せ系などの著書や、お話は150年前のニューソートの焼き直しであることは、何度か書いてきましたが、同時に、そのニューソート(光明思想)は私の「人生の羅針盤」でもあります。

稲盛和夫氏 座右の銘は西郷南洲の敬天愛人

奇しくも先日、京セラ(旧京都セラミック)の稲盛和雄名誉会長が亡くなりました。稲盛先生も私からみるとニューソートを実践された人です。知っていることと実践したことは天と地ほど違います。知っているだけで実践できないのが大半でしょう。でも目指すことはできます。先人の生き方に学びせめて少しでも近づきたいものです。

私は常々明治の日本人は最強と申します。その象徴が「谷口雅春先生」と「中村天風先生」の二人です。残された著書や言葉もまた私の「人生の羅針盤」です。予め申してしておきますが、言うまでもなく「谷口雅春先生」は

生長の家という宗教法人(昭和24年法人化)の教祖であり「中村天風先生」の天風会は昭和37年に財団法人化されました。私は、お2人の説は「人生哲学」という意味で尊んでいますが興された団体に関しては無縁ですし、この「始祖なき団体」は、私の敬する個人とは全くの『別物』であり関わってはいけないものという考えです。誤解がなきようお願いします。

 

お二人の略歴を失礼ながら記します。

「谷口雅春先生」

1893年(明治26年)貧しく生まれ4歳で養子に出されたことで実の6人兄弟の中でただ一人大学に進むことができた。早稲田大学文学部英文科に進学したが女性問題がもとで中退。紡績会社に就職するもやはり女性問題で悩み求道のみちに進む。大本教に入信、機関誌の編集に携わるが大本教が唱えた最後の審判の日に何も起こらず。脱退。数万冊の本を読み真理を求め続ける。住吉神社に毎日参拝、瞑想の日々の中で悟る。正しい宗教の真理は一つ「万教帰一」というもの。昭和5年「生長の家」誌を自費出版。読者の中から病気が治ったなどの人が多数出て宗教法人「生長の家」を設立。「生命の実相」は発行部数1,900万、その他多数著、文字での布教。1985年(昭和60年帰霊(91歳)

 

「中村天風先生」

1876年(明治9年)大蔵省要職の父の下に生まれる。印刷技師の英国人夫婦により日常的に英語を身につける。16歳の時、暴力事件で退学後、国家主義者の大人物、頭山満先生に預けられ陸軍の軍事探偵として満州に赴任、偵察稼働中にシナ語を習得。日露戦争で軍事探偵として活躍生還後、肺結核に罹患。33歳で救いを求めアメリカに密航、アメリカ、フランス、ドイツで哲学に失望(答えを得られない)35歳ドイツからの帰途偶然ヨガの聖人カリアッパと出会いヒマラヤへ2年の修行を経て悟る。(日本人初のヨガ直伝者となる)帰国後、錚々たる人々(皇室含)に対して講義を行う。1962年(昭和37年)「財団法人天風会」となり1968年(昭和43年)帰霊(92歳)

このお二人の接点についての書物は見当たりません。ただし、私は数々の書物に触れましたがお二人のお説は大変似ています。谷口雅春先生はニューソートの訳著もあり、自らニューソートを光明思想と名付け提唱されていますので真にニューソートの人です。そのお説と共通点の多い中村天風先生もまたニューソートの人だと思います。

 

そしてまた、別々に松下幸之助氏と稲盛和雄氏には各先生と接点があります。松下幸之助氏は松下電器産業の社員に生長の家の講師を読んで公演を行い共鳴したこと。稲盛和雄氏も少年時に肺浸潤にかかった時、谷口雅春先生の「生命の実相」を読んで衝撃を受け自分の考え方の基盤になったと語っています。松下氏、稲盛氏共に中村天風先生に深く共鳴されたということです。ということは少なくてもこの方たちは昔ニューソートと呼ばれた光明思想家であり、それを実践した方々です。それぞれに多くの門下と立派な法人を立ち上げた各界の神様です。

 

そのお説を私の文章力で、この少ない文字数で語るのは畏れ多い事ですが皆さんに知っていただきたいという意味でホンのさわりを書きますが、何しろ昭和の初期の文章からのものですから理解できなくて当然です。むしろを理解どころか逆に話を難しくするだけかもしれません。しかし敢えて書きます。

 

まず根本部分で当時はエーテルと言われていたものは「量子」なのではないかと思ったのが書こうと思ったきっかけで潜在意識が量子によって人類意識や宇宙意識(こちらは適当な言葉がない)と繋がっているのではないかと量子力学の話を聞けば聞くほど思えるようになりました。

 

中村天風先生は「肉体も心でさえも自分ではない」「本当の自分はエーテル(仮想物質)で肉体を取り巻いているが見えない。」と仰います。谷口雅春先生の場合「肉体はない」「心もない」「あるのは実相だけだ」となります。これを説明するのに恐らく20ページくらいはかかるでしょう。しかもそれ本当に私が理解しているかという問題があります。多くの人の場合、私も含みますが。知っているのと潜在意識(後で出てきます)に入っているのでは全く異なります。顕在意識(天風先生は実在意識と言っていますが)では知っていても潜在意識に入らないと役に立ちません。知っていても実行できない、しかも潜在意識で実行できなければ全く無意味なのです。

 

潜在意識とは人間の意識の中の95%を占める自分でコントロールできない意識。私たちが使えるのは氷山のように水上に出ている5%の顕在意識だけです。この顕在意識を使って潜在意識に刻み込んだ事柄は宇宙の意識とつながっていてやがてその自分の刻んだプログラム通りに自分の運命を導くのです。(このプロセスがやがて量子力学で説明されるでしょう)

 

自己啓発本の多くに書いてあります。そしてそのためにはイメージを写真のように描くのだと。イメージとは画像です。言葉や文字ではありません。画像のイメージは潜在意識に刻み込まれやすいのです。繰り返し繰り返し現在意識を使ってイメージを描く。それが習慣になってしまうとやがて潜在意識に刻まれて宇宙意識に通じその想ったことが実現するようにあらゆるステージが動き出す。自分の知らないところでも舞台が整っていくのです。引き寄せの法則や成功の法則など自己啓発本に書いてあることは間違ってはいません。しかしこれは希望実現という少しハードルの高い意識の使い方かもしれません。私たちの生活においては、そういったことよりも注意しなくてはいけないことを考えたほうが良いと思います。なぜなら、これを逆に使ってしまっている人が多いからです。自分の未来のイメージを常に負のほうに向けたらどうなるかということです。当然ですがその方向に運命は引きずられていきます。よりよくないものが実現する方向に潜在意識が完成してしまうのです。

私は中村天風先生の言葉を引用して若くして挫折してしまった人に申し上げたいことがあります。あなたの体も心も、あなたのものではなく地球上で生きていくために与えられた借りものです。その借りものを自分だと思ってしまったところに誤りがあります。借り物の調子が悪くても、借り物が弱音を吐いても、それはあなた自身ではありません。あなたの本質はあなたの借り物の周りにいて、その借りものを使って地上に何かの目的を果たすために生まれてきました。そこで挫けてはいけません。

借り物に本物が負けるはずがありません。あなたの本質はあなたの意思です。意志の力は借り物の心の力より強いのです。その意志の力を渙発し、あなたの心と身体を使いましょう。逆に使われてはいけないのです。これを知っても実践するのは難しいと思ったら。それはもう負けています。意志の力が一番強いのです。私が言っているのではないです。日本の聖人と呼べる人たちが同じことを言っています。とすればこれは眞實です。

 

もう一度書きます。書ききれないほどある宿命の科学、哲学のうち、両先生が使えといっているのが【言葉の力】と【信念(意思)】です。天風先生は意志の力だけは本当の自分から出る。だから強固な意志の力によって心を動かす。結果的に体も動く。宿命さえ動く。ということになると言っています。

 

絶対に必要な条件は「明るく」「建設的である」ことです。稲盛和雄氏が道を決める時の自分に問う条件は「動機は善なりや」「私心なかりしか」の2点 良心に悖(もと)る行動は潜在意識がそれを認めないので成功しません。逆に言いますと「動機が善で私心がなく明るく建設的な全人類のためになる仕事」を具体的に意志の力で強力に心に刻印(支配)し続ければ必ず実現するということです。

今の日本の社長っていうと皆さんには、どんな人が思い浮かびますか。恐らく手を泥や油で汚して研究開発を繰り返しモノになるかならないかわからないのに探求を続けて、失敗しながら成り上がる。なんていう人は浮かばないと思います。もう日本の大企業経営者で、そんな非効率で格好悪い人は出てこないでしょう。今、日本で成功している経営者は人や他の企業を使うのがうまい人ばかりです。

 

所謂(いわゆる)モノづくりを成功させた技術者で大起業家になるという効率の悪いことは現代以降考えられなくなるのではないでしょうか。松下幸之助氏も稲盛和夫氏も経営の神様といわれましたが会社を興した当時は一開発者です。シャープの早川徳次氏もホンダの本田宗一郎氏も皆モノづくりの人。時代がそうだったといえばそれまでです。ただ皆に共通しているのはモノと同時に人も作り「人間とは何か。人生とは何かを同時に考えていた」という点です。「何度失敗しても諦めなかった結果の成功」です。今の社長は労働環境の事は考えても、もっと本質的な哲学などというものを経営の軸に持っていないと思います。しかもモノづくりに直接関係ない「生きる意味とは何か」みたいなものは仕事に持ち込まないでしょう。ですから今後、ここに挙げたような経営者はもう出てこないと思います。それも時代なのでしょう。

 

科学によって人生の仕組みが解明されたら人類全体が幸せになるでしょうか。求めるものが効率よく手に入れば生きることに意味を持たせることができるのでしょうか。人生の羅針盤も無意味になってしまうのでしょうか。そんなことはないと信じます。

 

 

 

株式会社サンエイ30年 社員向け文書

2022年10月21日

私の「人生の羅針盤」の記事後に社員向け文を挟んでおきます。

居室の壁に谷口雅春先生の揮毫による「百事如意」の扁額が掛かっています。これは「何事も想いのまま」というニューソート(光明思想)そのままのような言葉です。

 

常々、「私のブログは身内向け私が存在するうちはよいが死んだら読めよ」と言っているように。いずれ一度は完読してください。雑記はともかく「古事記」や「歴史」「人生の仕組み」等の記事は重要です。日本に生まれて日本で商売していく以上は。

 新しい社員が増えました。どの会社も、日本社会全体が世代交代期を迎えていますがジェネレーションギャップが大きすぎることが問題になっています。日本社会の場合、不幸なことに過去に「根拠のない成功体験」があるので、そのまま継続とはいきません。根拠がないとは失礼ですが我々の前の団塊の世代は戦争の記憶はあっても当事者ではありません。それでいて日本弱体化の占領政策の影響を最も受けています。そのうえで経済発展の恩恵を最も受けたにもかかわらず後進には失われた30年をもたらすという。その年代の人同士で助け合い年金はいらないのではないかと思うくらい

今の若者と比較してよい思いをした年代なのです。何が言いたいのか。現代人が道を誤ると子や孫が大変苦労するということです。その子や孫が団塊世代とギャップがあって当然です。団塊世代は努力すればする程、還元があった時代でした。しかし今、個人が同じだけ努力しても同様の果実を手にすることはできません。団塊世代が連綿と続く日本という意識を無くす教育をうけ矯正することもなく唯物論的な経済を作ったからです。

 

海外に行ける人は一部です。若者たちはこの30年間停滞した日本で生きていかなければなりません。この30年、世界は変化しています。多くの国が右肩上がりの成長をしています。資本主義とはそういうものです。資本主義を続けていく以上、急激な右肩上がりも危険ですが緩やかに成長し続ける必要があるのです。

少なくとも日本のように減退するようなことがあってはいけません。皆さんの責任ではありませんが。

 

社内向け文章です。令和4年8月21日で株式会社サンエイは30歳になりました。そうです。失われた30年の中、サンエイは歩んできたのです。平坦な道で無かったことは想像がつくと思います。90年に半導体の世界シェア50%が日本でダントツでした。GDPはやがてアメリカに届くのでは言われたとき。プラザ合意と日米半導体協定によって日本経済の成長は止まります。現在の半導体シェアは5%です。その中でサンエイは起業して成長してきました。

 

平成4年8月21日 サンエイが起業した時の創業メンバーは現会長しか残っていません。私が創業者から聞いている話と周囲から聞く客観的事実を合わせてサンエイ創業時の状況を書くと。資金は岩瀨新午先生(当時三洋電機専務取締役)に建て替えていただいたのですが商社として立ち上がったものの売り先と仕入れ先の両方で目論見が外れ大変苦しい船出になってしまいました。

 

5年後に私が入社し洗浄装置の扱いを始め顧客が増えますが当時は円高により工場の海外進出が進んでいました。技術も人も海外に流出してしまったのです。国内に残った顧客企業の設備投資は新規から維持更新に変わっていきました。投資額も減少します。そんな中、予算の少ないお客様にも充分な結果をもたらせるように平成18年、行田市の賃貸工場で洗浄機の内作を始めます。この工場は鎌田晨平先生が借りていた物件の半分を使わせていただいたものです。鎌田晨平先生は、この時私に「あなたの考えは正しい。必ず成功する」と仰ってくださいました。鎌田晨平先生もまた私から見てニューソートの人そのものです。

 

目的は当時のトレンドであった修理や改造工事を安価に行うことだったのですが結果的に初めから新規装置も内作でき順調に立ち上がりました。統括部長も加わり洗浄機部門は4名で伸びていきます。令和元年、念願の自社工場を取得します。この時、竣工披露会を催しました。あいさつ文を添付しますので社員のかたは読んで下さい。そのような決意で本社寄居工場は立ち上がったのです。

あなたたちは主体的にストーリーを紡いでいく存在なのです。決して今の瞬間だけに生きているわけではありません。創業メンバーの想い。お客様の想い。協力者様の想い。そういったものと結びついているのです。歴史を知って

想いを紡いで新しいサンエイを作っていくのです。

前記事と順番を変えましたが。人生の羅針盤との関係をここから書きます。

扁額と同じくの壁に【社是「感謝の心」「和の心」】の額が掛かっています。

意味についてはホームページの「企業理念」社是の項に書いてありますので

再読してください。

尚、この社是の文字は「岩瀨新午先生」に書いていただいたものです。

ここでは岩瀨新午先生と鎌田晨平先生について説明します。サンエイという小企業ですが支えてくださった多くの人のうちでも、このお二人はセミコンジャパンのような展示会で中心に居られたような方、日本の半導体業界に多大な貢献と影響を与えた方です。そのような方々がサンエイを大切に考えてくださっていて霊界にお帰りになられた今でも見守ってくださっていることを忘れないでください。岩瀨新午先生については創業者も私も、お彼岸は足利市への墓参は欠かしません。

 

岩瀨新午先生については 「日本半導体歴史館」の黎明期の人々から鎌田晨平先生については長年役員を務められた「SSIS半導体シニア協会」の機関誌2004年ニューズレターから転載させていただきました。

 

[岩瀨新午先生]

大正7年生まれ昭和20年、東北帝国大学理学部物理学科から電気通信省電気通信研究所入所。(旧日本電信電話公社電気通信研究所/元NTT研究所)昭和25年、日本で最初にゲルマニウム結晶を用いたトランジスタ増幅現象を確認。これはベル研究所からトランジスタの発明が公表されてから1年8ヶ月後という早さで通研でのプロジェクトリーダとしての始めての業績となる。成功のポイントは毎日諦めず、測定を繰り返したことでゲルマニウムと針の接触点に何度も電圧が加えられた結果だった。昭和27年には国産初の合金型トランジスタを開発、翌年にはトランジスタ・ラジオを展示しており、ソニーが工業製品としてトランジスタ・ラジオを販売する2年前のことである。ニューソートです。

昭和32年、三洋電機半導体研究所長就任昭和61年三洋電機代表取締役専務半導体事業本部長就任し平成2年から平成7年まで三洋電機顧問。三洋の半導体の歴史そのものです。

[鎌田晨平先生]

昭和11年生まれ農業高校にて通信教育で無線を学ぶ。19歳で上京、東海高等通信工学校で学ぶ。夜は警備員のバイトし生活費も学費も捻出。研究生名目で約3年間、東京工業大学で電子回路を学ぶ。警備員のバイトは継続。大学時代、國洋電機工業の社員教育の講義を依頼された縁で昭和36年、國洋電機工業に入社(この時サンエイ創業者と同期で入社)半導体黎明期、米国製LSI自動試験機の開発で昭和44年タケダ理研にスカウト移籍、創業者武田郁夫氏の熱意により米国出張後プロジェクトの技術者たちと若い情熱によって「世界一」のLSI試験装置の開発が目指す。昭和50年、石油危機による経済不況で富士通がタケダ理研に資本参加。昭和52年、速度100MHz、384ピン対応の超LSIテスタ完成。40MHzメモリーテスタと256ピンのロジック市場向けLSIテスタが米国で大ヒットし昭和60年、アドバンテスト(旧タケダ理研)は世界トップシャアを得る。現在に通ずるテスタのトップメーカーの礎は鎌田晨平先生の存在そのもの。「寝ずに仕事をするのは苦ではない」そのニューソート人生。80歳を超えて夏も冬も屋外の倉庫で排ガスの浄化装置の開発に熱中する姿(真の生涯現役)を最期まで見届けた私。真に尊敬に値する人でした。

こういった方々の他にも、サンエイを心から応援してくださり。今は霊界に旅立たれた方がいらっしゃいます。私はいつも感謝を忘れないことと同時に心の中でお誓い申し上げています。見守っていていただいている皆様に恥じない会社になりますと。サンエイの社員の皆さんも、そのことを忘れないようにしてください。

 

 

 

男系男子の皇統継承について

2022年10月16日

この度、青森県神庁様 http://www.aomori-jinjacho.or.jp/ を通じ「たったひとつのきまりごと」の転載許可をいただきましたので冊子のPDF版を基に記事を書きたいと思います。実物は青森県神社庁様のホームページから申し込めます。非常に安価ですのでまとめて入手されることをお勧めします。

 

今の御代の天皇陛下を今上(きんじょう)陛下、今上天皇とお呼びしますが、今上陛下は、お名前が徳仁(なるひと)称号は浩宮(ひろのみや)様です。拙著ブログで古事記神話の記事を書かせていただいていますが、この神話と直結の皇統というものは世界に類がありません。もちろん独裁者が後から神話を作ることもあるし、古事記だって最初はそうだったのではという疑念はあるでしょう。しかし少なくとも1300年以上は確実に繋がってきたという事実もある訳です。私にとっては、それ以前の約1000年も眞實ですが、西暦に660年足すと皇紀(初代 神武天皇の即位からの年号)ですから今年は皇紀2682年ですし皇紀2600年が海軍のゼロ戦の名前の由来だとかいろいろありますけど。もしこのことを知らなければわざと知らされなかったということに気づいてください。一部の人は天皇を神格化して戦争が起きたとの教育を信じていますが、そんな単純なものではないのでは?と疑い調べましょう。

堂々とアダムとイブの神話に異論をはさむ人は少ないですが、日本神話の欠史八代(けっしはちだい)とか天孫降臨の話になると当の日本人がムキになって否定するのは何故でしょうか。欠史八代も天孫降臨も信じない人がいても良いですが神話に大和の理念が書いてあることは認めていただきたいところです。イブが蛇に騙されて智慧の木の実を食べて楽園から追放される話と伊邪那岐命が黄泉国のものを食べて帰れなくなる話は似ています。アダムとイブの子孫は途切れていますが日本の場合は神話直系の男子男系の皇統が少なくとも1300年以上続いていて今上陛下で126代です。それを予備知識として先に進みましょう。

 

冊子では「たったひとつのきまりごと」は皇統の男系男子だとして、その理由が書いてあります。全てのページは載せませんが抜粋して私の捕捉も書かせていただきます。皇統の連続性については 政治の混乱は望ましくない(2022年08月13日)で書きましたのでそちらを見ていただくとして。冊子ではイギリスとChinaの例が出ています。

イギリスについては先日、エリザベス女王の逝去に伴い国葬が行われたので伝統と格式を強く感じた人が多いと思います。私のイギリスへの感想は何で世界中に英連邦王国などと呼ばれる国がいまだに存在するのか、独立しているとはいえ元の植民地。同じこと日本でしていたら大騒ぎですね。それは置いておいて英国の王朝というのは冊子にあるように連続していません。ウィンザー城でお別れした通りエリザベス女王はウィンザー朝の女王で王朝は交代しているのです。

Chinaは中国共産党創立100年です。建国100年は2049年です。

あの地をシナと呼ぶなら4000年の歴史ですが、こちらは易姓革命の歴史ですから王朝が変わると民族の構成まで変わってしまいます。気を付けていただきたいのですが私はどちらがよいとか優れるとか偉いとか考えているのではありません。それぞれの国柄を言っているのです。日本の国柄は他とは違う。優れているわけではないが特徴を持っている。万世一系という特徴です。男系男子による皇統継承という歴史です。

これまで先人たちがどうやって「たったひとつのきまりごと」を守ってきたかみてみましょう。冊子の並びを勝手に変えさせていただきましたが。その時代ごとに大変努力と苦労があったのがわかります。先人たちはそれを乗り越えて男系男子を守ってきたのです。自然に成ったのではありません。大変な苦労をして紡いできたのです。冊子には【皇統の危機】[古代編] [野望編] [近世編] [今] とありますが、[今] の危機を乗り越える答えが [古代編] に出てしまっていますね。今の危機、「男系男子がいないじゃないか、側室制度はないし」という声があります。古代編の危機 25代、武烈天皇がお隠れになったとき5代遡って福井県から継体天皇をお迎えしたとあります。皇室の存在を日本の強さと認めた占領軍(GHQ)は、その解体の為、11宮家51名(26名の皇位継承者を含む)を臣籍降下させて一般人にします。考えましょう。まだ2~3代前の話です。戻せばいいじゃないですか「一般人を天皇に?」と思ったあなたはGHQにやられています。一般人の天皇より男系断絶のほうが遥かに問題です。男系系統が途絶えたとき。王朝交代です。それはもう日本の国柄を失ったことになります。江戸時代も新井白石が創設した宮家によって男系男子が守られました。出来るのです。有識者委員会の話があまり公に出ません。話し合われた内容に都合の悪い事でもありましたか?ただ概ね男系男子継承意見にまとまったと漏れ伝わっていますので良かったです。

野望編の弓削道鏡や南北朝の足利は重要でなく。七生報国の楠木正成は愛国の象徴として後世に於いて水戸光圀公が墓碑建立するなど語り継がれる話です。写真は皇居外苑にある楠木正成像。朝廷を護ろうとした武人代表です。

皇統126代のうち女性天皇は過去に10代8人(いずれも男系女子)その御子は天皇にはなりません。どんなに遠縁でも男系男子で紡ぎます。そもそも天照大神が女性神ではないかという極論もあります。ここまでのブログを読んでいただいた人はご存じですが、天照大神が正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を お産みに成ったのは須佐之男命との誓約(うけい)によってです。三種の神器から誓約で産めるなら(男子を介さないなら)女性天皇の継が誓約で産まれた天皇でも良いという議論が起こるかもしれません。

皇族に男系男子がいなくても、神武天皇に連なる男系男子は数十人いるという説が有力です。

 

不安定なことは確かですが末期状態ではありません。それより日本人の少子化のほうが問題なくらいです。私たちの世代が、これまでの千年以上紡いできた先人の努力を破壊する権利があるのでしょうか。

 

一度壊したら永久に戻らない皇統。そんな傲慢なことが許されて良いものか。と私は考えます。

それこそ、日本人の大御祖神に申し訳が立ちません。人間25代遡ると直接血縁者は一億を超えます。

 

126代ということはその中で全員繋がっていますけど。男系男子直系126代というのが如何に奇跡かということがこの冊子から読み取れたでしょうか。

 

今の程度で男系男子が危機だという為政者は仕事をしなければなりません。宮内庁も男系男子を護る気がないなら必要ないですね。

天皇は神代から続く皇祖皇宗の祭司主、神道を護る最も重要な役割でありますから、宮中祭司こそが本業であって代々そうしてこられました。国民統合の象徴などの語は不敬です。天皇を戴いているから日本国なのです。天から天下った際、天孫(天照大御神の孫神であるから)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が神勅(神からの言葉)を授かりますが、古事記には「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」としか出てきません。日本人向けには多くの言葉を必要としないからでしょうか。外国向け文書の日本書紀には、しっかり三大神勅として記載があります。現代日本人には必要ですから書いておきましょう。

どうですか。最も重要なのは天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちよく)と言われています。天皇が治めている限り日本の国は栄える。日本の国が栄えることが神の喜びであると書かれています。逆に言うと天皇の存在。皇統の存在が危うくなれば日本も危機となり、皇統が断絶すれば皇祖皇宗(神)とのつながりが切れる。日本はどうなるんでしょうか。少なくとも島の形は変わらなくても日本じゃなくなるのでしょう。私はそんな日本は見たくない。だから今、毎日祈っています。皇室の弥栄(いやさか)を。我ら日本人として。

 

 

 

日本神話 一旦整理

2022年10月10日

日本神話 一旦整理します。

 

日本の国柄の理念を記したのが「古事記」です。このブログの易しい古事記解説の一番初めの記事から読んでいただかないといけませんが単に歴史を記録したものではありません。

「記紀」と言われている「古事記」と「日本書紀」が何故同じ時代に2つ必要だったのでしょうか。これも以前書きましたが。共に天武天皇が西暦の680年ごろ同時期に編纂を命じたのです。記紀を別々の編者に命じ意味について今一度確認します。初回記事のほうが詳しいのでそちらもご覧ください。 

『古事記』は稗田阿礼(ひえたのあれ)の口伝を太安万侶が[日本型紀伝体]で筆記したものです。音で残したもので誰も読めなかったものを江戸時代に「本居宣長先生」が当て字をし直して文書として残っています。本居宣長先生の翻訳(文字を当てた)の正しさは「宣長にまねぶ」(志を貫徹する生き方)を読んでいただければわかると思います。ですから今多くの古事記の解釈がある中で『言葉を文字で残した』ということを考えなければなりません。しかも近代になってからです。大和言葉も恐らく神代の言葉を現代人が聞き取ることはできないでしょう。ましてその意味を知るには音の持つ意味を知る「言霊学」というものが重要ですが、その重要性に気づいている人は少なくて多くの人は文字(漢字)の意味を辿ろうとします。

 

意味がないとは言いませんが「音」が重要なのであって漢字はあてたものだとすると本当の神話の意味を理解するには個の文字で読んでも意味がないことがわかるでしょう。大和言葉の音が現代人にわからない以上「この一文字にこのような意味があるからこの文字が語るのはこれだ」という解釈は成り立たないのです。

さて「日本書紀」は漢文で書かれていて意味も読み解けます。しかし当時の公務員が外国向けに書いたこの[編年体]の文章にどのような意図があるでしょうか。一種の外交文書で唐(China)が用いたような国際様式です。この文章は天皇の系譜や皇位継承の説明分のガイドブックなのです。歴史研究家が底本に「日本書紀」を持ってきた場合、そこに日本の正史(真実的な)や理念があると思うのは誤りです。

「邪馬台国」の王「卑弥呼」元字「臺」は「トゥ→ト」  伝聞で「ヤマト国のヒメミコ」 と書いたのだと思う

関連して「卑弥呼」と「邪馬台国」について私見を述べます。『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』という3世紀のChinaの文書を何故そんなに奉るのか全く理解できません。そもそも『魏志倭人伝』という文書はなく、歴史書の『三国志』(フィションではないほう)中の魏書の項のごく一部にあるたった2,000文字の記載のことをいっているのです。

「倭」(これはのちに日本でも自国に使いましたが)「卑」弥呼と「邪」馬台国。これら「 」の字は何れも良い言葉ではありません。

これらの悪い言葉を日本人が伝えるはずがない(文字がない)のでChinaの人の伝聞を記録した文章なのです。これをあたかも正史としてみるのがなんとも違和感があります。「卑」(いや)しい「邪」(よこしま)な「倭」(わ)(弱々しい)という国と言われて喜んでいるのが可笑(おか)しいのです。

 

当時Chinaは他国は全て野蛮で劣るとみる中華思想(華夷秩序)の国柄なのです。しかし呼ばれた側の日本人がそれを歴史のロマンだなどと言ってしまうことには疑問です。「邪馬臺國」の当用漢字がないので邪馬台国です。

臺の字はトとChinaで発音したという説もあります。そのほうが私の考えには合います。日本人は皇子が男子の場合「彦御子」(ひこみこ)女子の場合「姫御子」(ひめみこ)と呼んでいました。大和の国(当時は)は文字がない当時Chinaで倭と書き「やまと」と呼んだと推測しますが「大和の国の姫御子」(やまとのくにのひめみこ)が伝聞で「邪馬台国」の「卑弥呼」になったのだろうと個人的は思っています。だから永遠にこのとこと証明できないでしょう。無いことの証明を「悪魔の証明」と言います。歴史上の悪魔の証明になってしまうのだと思います。

 

我が国に失望することはありますが自分の生まれ育った国を貶めようとは思いません。「卑弥呼」と「邪馬台国」は私にとって気持ちの良いものではありません。どうしてもそれらの存在を先に事実だとして、その歴史の証明を求めるのでしょう。私たちにとって必要なのは事実ではなく真実です。

日本神話の整理が違う方向にいってしまいました。

これまで書いてきた神話の世界は前後しましたが主に「高天原」(たかあまはら)についての事です。読み方は色々ありますが私は「たかあまはら」と呼んでいます。天地初発から天孫降臨までの天津神(あまつかみ)の語り、まだ天孫降臨(天照大神のお孫神が地上に降りる話)まで進んでいませんが、地上の話も並行しておこうと思います。高天原のみが神話ではありません。主役の地は「豊葦原千五百秋之瑞穂国」(とよあしはらちいほあきのみずほのくに) 短く言うと他に葦原中国、中津国、瑞穂国、その他たくさん呼び方が出てきますが日本の人間界です。人間界とはいっても日本では皆、神の子孫なので地上とでもいいますか。「葦原中国」(あしはらなかつくに)

そう、だから中国は日本を示す言葉なので使い分けをしています。私は。

 

神話の大切なところは、そこに大和民族の理念と眞實が書いてある。祈るような信念の想いが書いてあるということです。何とありがたい事か我々はそれを捨てることも改竄することもなく残してきた世界に稀な民族です。神の系譜天皇という存在も戴いています。まだ残っているこの奇跡的な歴史を閉じようとする動き、軽視する現代人の何と多い事か。もったいない。先日、「宗教法人に課税を」とヤフコメしたら4万を超える反応がありました。地方の神社仏閣がなくなると。文化財は別にして、保護してもらわないとならない程、神道が廃れてしまったということでしょうか。日本人の基であり帰結先でもある神道。その程度の事でなくなってしまうほど脆弱になってしまったとしたら大和国が守れるはずがありません。

神話に戻ります。

これまでも繰り返し述べているように、拙著ブログは私の浅薄な知識と思い込みで書いています。興味を持ったら自分でもファクトチェックしましょう。

 

日本神話(20)のとおり 天照大御神の「天の岩屋戸隠れ(籠り)」の危機を神々が力を合わせて明るい方法で脱しました。高天原にも葦原中国にも光と希望が戻ります。つまり高天原(天上)と葦原中国(地上)は連なっているということです。危機を脱した後は事を起こした責任を取らなければなりません。日本神話(21)建速須佐之男命 御被避(みやはらえ)のくだり。ここまでで記事が止まっていました。

宮崎県高千穂町 天安河原(仰慕ヶ窟)天岩戸籠りの地 天手力男神が投げた岩戸は長野県「戸隠山」へ飛んだ

もう一度日本神話(21)建速須佐之男命 御被避(みやはらえ)のくだりを読んで追記したいことがあります。日本は火山列島であり気象的にも天災が非常に多い国柄です。その中で人々は生活を営んできました。現代に於いても様々な困難に逢うたび世界から日本人の優れた対応能力が称賛されますが、これはやはり自らが育んだ神話にも書かれている理念の表れということができます。御被避のくだりで大宜津比売神が殺された後に生まれた稲、麦、小豆、大豆、粟、蚕は、いずれも後の日本の主要産業であり生命線です。これが一柱の神による一柱の神の死から生まれるということ。非常に示唆深いものがあります。

日本でなければそのような神話は生まれにくいと思います。死ぬことからより大きいものが生まれる。大災害に遭ってなお希望を失わずに復興できる力が日本人に備わっているということが書かれています。

今私は少し心配しています。日本人のその復興の力が他力本願になっているのではないかということ。これは戦後の占領方針WGIPとも無関係ではありません。占領目的の一つは神国日本を再び立ち上がらせないこと。スイス民間防衛の手引書にもある武器を使わない侵略です。目的達成の為、占領軍は神道を国民から遠ざけ神道のトップである天皇の役割を変えました。今でも国の防衛さえ他国に依存し自らが国を守る力を持てません。日本の制空権を日本は持っていません。そんなことで東日本大震災を大きく超える災害に襲われたとき。過去の日本人のようにそれを受け入れバネにしてよりよい社会づくりにつなげられるほどの気力が現代日本人にあるでしょうか。「神話を忘れた民族」と検索エンジンに打ち込んでみましょう。

 

「神話を捨てた民族の末路」が目に見えるようになってきました。ガス、水道、道路、電気等の生活インフラの維持さえ外国に頼ろうとしている今の日本人には、古事記が語る日本人の理念。それを理解して継承することが第一なのです。人間が一代限りのものなら私のこんなブログには意味がないのです。悠久の歴史のつなぎ手として義務感をもって書いています。保守というのは外国に向かって威勢のいい態度をとることではありません。国柄に相応しい行動をとることです。

 

ここで再度神々の系譜と位置関係について記したいと思います。ここに書いた表はあくまで私見です。

特に根堅洲国と黄泉国の位置関係については諸説あります。

ここから、「天孫降臨」「国譲り」「神武天皇東征」と続く お話は戦前は誰もが知っている常識でした。

「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」「因幡の白兎(いなばのしろうさぎ)」「海幸彦と山幸彦」いずれも葦原中国を舞台とした神話ですが、私たちでさえ「グリム」や「アンデルセン」「イソップ」の童話で教育された世代です。

グリム兄弟(ドイツ)アンデルセン(デンマーク)英名イソップ(ギリシャ)も素晴らしいお話ですが日本が舞台ではありません。八百万(やおよろず)の神々も出てきません。

 

新渡戸稲造はドイツ留学時にベルギー法学者ド・ラブレー氏に「宗教を教えない日本でどうやって道徳教育ができるのか」と問われ「武士道」を書きました。武士道はChina由来の儒学や陽明学というものを多く取り入れていますが根底には神話があるのです。神道の基礎の上に儒学や陽明学を学び「武士道」が開花したと私は考えます。

 

日本にも、かつて誰もが先人から聞き継がれた御伽噺(おとぎばなし)があったのです。その中には古事記の神話を基にした。或いは変化させた話がたくさんあり。そこには神話の理念(エッセンス)が入っていました。舞台も当然日本です。日本人の生き方を導く日本人のためのお話です。このブログの今後の記事の幾つかも「御伽噺」的な書き方になっていきます。「ヤマトタケル」はもう書いてしまいましたが。では、また改めて。

 

 

 

敗戦の誤謬

2022年08月16日

昭和39年生まれは戦後19年だったと思うと戦争の記憶がまだ強く残っていたのでしょう。受けた教育も戦争の反省ということもあったのでしょうか過剰な反戦教育だったと思います。ここに書けないようなとても残忍な日本人の行為の数々を授業で教師が語っていました。私の亡祖父は出征した満州での思い出をいつも楽しそうに話していたのでそのギャップに違和感を覚えたものです。当時は学校教育のほうを信じていました。そんな人は多いのだと思います。そんな逆洗脳状態から今の若い人は脱しつつあるとのことですから喜ばしいことではありますが日本が国力を落としている現代、知識が正しくても肝心の個人の幸福が置き去りになるのは残念です。日本としての誇りを取り戻すと同時に日本の未来についても明るいものにしなければなりません。日本が繁栄してはいけないと思うような教育を私たちは受けてきました。国力や軍事力が増すとまた侵略を始めるなんて思わされてきたのです。そんな誤謬がなぜ生まれたのか私なりに記したいと思います。例によって長文ですがファクトチェックは各自でよろしくお願いします。いずれ大東亜戦争は近代史のテーマとして別途取り上げます。

 

第一に日本の戦争の終わらせ方東京裁判と戦争犯罪についてについて(松井石根)

第二に終戦の詔書から昭和天皇の御心について

 

・日本の戦争の終わらせ方

先の戦争は日本では大東亜戦争と呼ばれていました。戦後この呼び方は占領政府によって禁じられ太平洋戦争となっています。占領が解かれ自主権を得ても日本では太平洋戦争と呼んでいます。靖国の英霊は太平洋戦争って何?と思っているでしょう。それで私は大東亜戦争というようにしています。世界的にはアジアでアメリカと日本が戦争していただけではありません。第2次世界大戦だったのです。第2次ということは1次があったわけです。1914年-1918年 ドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国(同盟国)×イギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア(連合国)のヨーロッパでの戦争ですが日英同盟が機能していましたから連合国の日本が先勝側になったのです。戦後処理でドイツが太平洋方面にもっていた島々を委任統治することになってChinaでもドイツの権益を継承してしまうのです。第2次大戦は1939年9月にイギリスとドイツの間で始まり1941年6月にはソ連とドイツ12月にドイツの同盟国になっていた日本が真珠湾を攻撃することになるわけです。開戦の事情が全く違うのですが日独伊対連合国という負け組に入ってしまいます。この辺の理由も学問になっているくらい諸説ありますが1921年に日英同盟を破棄せざるを得ない状況になったことは後の歴史に大きな影響があったでしょう。第2次世界大戦の終わり方については連合国対ドイツ・連合国対日本で大きく異なります。1945年の5月にはドイツはすでに降伏していました。またドイツはナチスという一政党が戦争を起こしたことになっています。ナチスはホロコーストという名の人種差別大量虐殺(600万人説あり)という人権蹂躙問題をおこしていました。このドイツと日本の戦後処理に共通点、相違点があります。ドイツは4月にヒトラーが自殺して5月7日連合国に無条件降伏しました。

日本は8月15日が終戦の日とされていますがポツダム宣言という降伏条件が米・英・Chinaから示されたのが7月26日、8月8日にソ連が後追いで提示国に乗ってきます。この受託を決定通知したのは8月14日、調印したのが9月2日です。8月15日は天皇陛下がポツダム宣言を受託することを国民に放送で知らせた日ですね。1963年に「終戦の日」が1982年に「終戦記念日」が閣議決定されて追悼式などが行われているということです。

さて、本題はドイツと日本の敗戦処理についてです。この2つの国を同じ内容で制裁できなかったのです。制裁と書きましたが連合国にとってはあくまで戦後処理ですが受けた側にとっては実質的には制裁ですね。負ければこうなります。恐らく現在進行形のロシアとウクライナもどちらかが勝つか負けるかで受ける戦後処理は全く違うことになるでしょう。国際社会はそれに異論は唱えるかもしれませんが手出しはしないでしょう。それが現実です。

英首相ウィンストン・チャーチルは戦犯処罰を連合国の戦争目的に位置付けます。1941年12月の大西洋憲章はナチスの破壊を目的とするものです。

ドイツ日本とも戦勝国は国家の

改造をしようとします。

 

・ナチス指導者を裁く

 ニュルンベルク裁判(左)

 

・日本の戦争指導者を裁く

 東京裁判(極東国際軍事裁判)(右)

ここで今までの戦争犯罪と違うカテゴリーが必要になるわけです。禁じ手の法の遡及です。(後から罪を作る)

何故かというとナチスが行った大量虐殺を裁く罪名がなかったので戦争犯罪にカテゴリーを作りました。

カテゴリーBは「戦争犯罪」(従来からある戦争法違反)

カテゴリーCは「人道に対する罪」(ナチス大量虐殺処罰用の新しい概念(残虐行為処罰))

カテゴリーAは「平和に対する罪」(侵略戦争再発防止用の新しい概念)

これらはアメリカ陸軍省が主導し先に裁判になったドイツ用の概念が東京裁判にも流用されました。

ニュルンベルクの裁判所が国際合意であるロンドン協定により設置されたのに対し東京裁判はマッカーサー連合国最高司令官が裁判所を設置ということになっています。いちアメリカ人がなんでそんな権限があったのでしょうか。私怨ですか。まあマッカーサーの言うことを日本人はよく聞くわけです。鬼畜米英とか言っておきながらコロッと変わってしまう。現代日本人に通じるものがありますね。

従来の戦争犯罪は世界中40カ国以上で裁かれました。死刑になった日本人(朝鮮人・台湾人を含む)英霊は1000人以上です。彼らが言いたかったことは「BC級戦犯60年目の遺書」を読みましょう。よくわかります。いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝」も読みましょう。マッカーサーにI shall returnと言わせた男です。「一粒の麦 提督 醍醐忠重の最後」(海軍中将)も良いですね。皆武人にふさわしい最期でした。

東京裁判では28人が起訴されて7人が死刑になりました。11人の戦勝国判事のうちインドのラダ・ビノード・パール判事のみが不戦条約は防衛戦争までは禁止していないこと。防衛戦争は各国の概念があり満州等の占領地の維持目的である日本の軍事行動も防衛戦争ではないとは言えないと主張しましたが判決は覆りませんでした。

 

7名の死刑囚のうち廣󠄁田弘毅は外務官僚でしたが日本の武人は立派に刑を受け入れました。言いたいことはたくさんあったと思います。刑が執行された1948年12月23日は当時の皇太子殿下、今の上皇陛下の誕生日、陰険だと思いませんか。A組7人(東条英機・廣田弘毅・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章)のうち廣田弘毅は政治家、それ以外の6名は陸軍軍人です。武藤章だけが中将であり運不運もあるのかと思います。

 

 

【日本には戦犯はいない】(当時の国民の総意)

当時の日本人の立派なところは矛盾や理不尽を改めたところです。連合国の占領下から脱した昭和27年5月1日に法務総裁が東京裁判での戦犯は「平和条約発効と共に撤回されたものとする」という主権回復した国家としての通達を出し、翌昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が上程され、旧社会党・共産党を含む全会一致で可決(共産党は当時会派がなかったとして現在は否定)して全ての戦争犯罪人というものは正式に存在しないものとなりました。その時国民の赦免署名は四千万集まったとか眞に日本人の総意といえます。

国会では、この28年以外でも

昭和27年6月9日、参議院本会議「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
昭和27年12月9日、衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」

昭和30年7月19日、衆議院本会議「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」

をしているのが事実です。戦争犯罪に関しては清算済み。全員「戦争による公務死」で罪人じゃありません。

今年もまた特定のお隣さんからクレームが来ているようですが日本人なら正しく反論しましょう。

「国内で解決済みなので内政干渉はやめてください」と。

 

さてA組7人ですが同じ日に処刑されたのが7人で松井石根大将だけはB組扱いです。(A組で無罪)

松井石根大将についてはもっと先で書くつもりでしたが思い入れがあるのでここに記します。

松井石根は昭和10年に予備役になっています。現役終了者、ご隠居です。(乃木希典も予備役でした)

China側でいう南京大虐殺という事件の責任を取ったのです。Chinaをとても大切に思っていた人だったのに。

知らないというのは愚かなことです。外人にはわからなかったのでしょう。この大将の人となりを。

松井将軍はChinaを愛し日支友好こそがアジア安定の要であるという確固な思いを持っていました。日支関係が悪化の一方をたどったため59歳で上海攻略戦の総司令官として召集されてしまいます。

巣鴨プリズン  現サンシャインシティ

中華民国の父 孫文と蒋介石 中華民国とは台湾

中国革命の父「孫文」の大亜細亜主義に強く共鳴してChina駐在武官に志願したほどChinaを愛していました。蒋介石とも親交があって蒋が日本で暮らした際には生活の支援をするなどの人物がまことに因縁的なことに蒋が誇大喧伝した「南京大虐殺なるもの」により処刑されてしまう。蒋介石は後に「松井閣下にはまことに申訳ないことを致しました」と回述したという話も真偽はわかりませんが残っています。

Chinaを愛し孫文の革命を助け留学生当時から面倒を見た松井石根、巣鴨プリズン(現サンシャインにあった処刑所)収監前の言葉「乃公(自分)はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と語ったとか。

 

この言葉、私には100人切りの汚名を着せられ処刑された向井少尉の辞世と重なります。以下に記します。

「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。・・・我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。中国の御奮闘を祈る日本の敢奮を祈る、中国万歳、日本万歳 天皇陛下万歳 死して護国の鬼となります」どうですか。たとえ自分に罪はなくとも自分の死をもって日本とChinaの友好の礎になるなら本望と言っているのです。立派ですね。B組の遺書にも同様の言葉はたくさん出てきます。是非読んでください。

 

興亜観音について書きます。

静岡県熱海市の伊豆山中腹に「興亜観音」は立っています。昭和15年(1940年)帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝など退役軍人として英霊の冥福を祈り遺族とかかわるなど慰霊に努めました。やがて東京の官舎を引き払い伊豆山に転居、興亜観音を建立し日本、支那両国の戦死者を弔います。観音堂への参詣と朝夕の観音経の奉唱を欠かさず全国の傷病兵の見舞いに努める一方、支那各地の戦跡 を巡るとともに亜細亜の独立のために奔走しました。松井将軍の尊敬した乃木希典大将も時代は異なりますが日露戦争旅順要塞攻撃で亡くなったロシア軍兵士慰霊のため追悼碑の除幕式に参加するなど慰霊に努めていたそうです。

 

松井将軍は畑軍司令官にお願いしChinaから運んだ土で陶工柴山清風氏に一次焼成、彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼。常滑の杉江製陶所にて仕上げの焼成を行って製作されました。

【興亜観音開眼式後の松井石根インタビュー】(主婦の友)

「部下の英霊と共に住みたい。それが、私の永い間の願ひであった。今ここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心(ちゅうしん)から歓ばしく思ふのである。大命を拝して江南の野に轉戦(てんせん)し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡(かいらい)となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである。両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大悲の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。」

立派です。でも死刑でした。

 

【伊豆の生活を支えた女中の杉江清子さんによる松井大将の日課】
「まず朝起きると、家にいらっしゃるときは興亜観音さまのところへ。ユリコという犬がいてね、(松井大将と)ユリコと私と3人で行くんだがね。私は旦那様の背中を押してさしあげて、そしたら旦那様も一生懸命に山道を上がって。南京陥落で亡くなった部下たちのことをすっごく可哀想に思って、南京の土を持ってきて観音さまを造って、そういう戦死した人の供養をなさっていた。だから毎日観音さまのところへ行っていた。季節を問わず毎日です。雨が降っても私が傘をさして旦那様の背中を押して行っていた。そして合掌し、じーっと10分か15分ぐらいかなあ、毎日供養をなさっていたんです」「私は、どうしてそんなね、旦那様が悪いわけじゃないのにね、なんで戦犯にならなければいけないんだろうと思ってね。なんであんないい旦那様がそんなことしないといけないんだろうかと思って、泣けてしかたがなかった。絶対に旦那様はあの世でいいところに行ってると思う。極楽へ行ってると思う。そんなね、悪い人じゃないもん。いまでも会えたら会いたいわ。本当にかわいがって下さった。親よりかわいがってくれた。だから、会えたらいまでも会いたい。優しい言葉をかけてあげたい。是非、旦那様のそういう濡れ衣を晴らしてあげてください」

人格者です。でも死刑です。

皇軍は明治が最強。連合軍としての亜細亜最初の軍隊、元々の明治人の気質に綱紀粛正が行き届いた最高の軍隊。大正昭和となるとモラルの低下もあったようです。日本人の劣化が明治から見ればあったのだと思います。明治の軍人だった松井大将が予備役から上海攻略戦の総司令官として召された時59歳です。綱紀粛正に関しては明治の軍人らしく大変拘ったのですが相手は大正昭和生まれの若い兵。松井大将はどう見られていて下士官はどう従ったのか。ともかく松井大将の南京入場に際しての指示をみてみましょう。

松井石根大将 南京入城

〈捕虜の虐待や民間人に被害を与えないよう上海と南京の攻略戦において松井将軍が何度も「戦時国際法」に基づいて軍紀を守るよう念を押しています。軍紀に厳しい理想肌の松井中将の下にいたのは大正昭和世代の下士官でした。南京事件はゼネレーションギャップが戦場で引き起こされた悲劇といえるかもしれません。〉

 

〈松井は南京攻略を前に「南京錠攻略要領」〈略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む〉を兵士に示した。日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まり、南京陥落。松井が南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪(りゃくだつ)行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮(けいぶ)の思想を念を押すようにして戒めた。〉


〈翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めたそうです。〉

 

〈南京に向かう途中での話。松井大将が南京戦に向かう途中 日本軍の戦死体は埋葬されて、戦場清掃を済ませていました。それを見た松井大将は、二人の参謀を呼びつけ 日本兵の死体だけを片付け支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとかと叱りつけたそうです。〉

 

日露戦争後、蒋介石を援助してChina統一させたかった松井石根。関東軍(中華民国から租借した地域の日本陸軍守備隊)は逆に済南事件(1928年)をきっかけに蒋介石と敵対します。それでも1933年に「大亜細亜協会」を設立し欧米列強に支配されるアジアからの脱却のためChinaと協力しようとします。1934年に現役を退いて予備役になります。ここからの再登場となるのですから松井大将がいかにChinaを尊敬し敬愛していたかわかるでしょう。松井大将は親Chinaとして再度、世界の見る目を気にした陸軍から徴用され司令官としてChinaの地を踏みます。にもかかわらず逆に南京入城後にChinaに対して弱腰とみられ更迭されたのです。帰国後、日支双方の犠牲者の慰霊の日々を送りながらA組戦争犯罪で訴追されますがA組は無罪だけれどB組で死刑となったわけです。Chinaの言う南京大虐殺があったのなら仕方ないかもしれません。でも通常の戦闘の延長だったら。否、戦争に負けていなかったら結果は違っていたでしょう。なんという皮肉な結果でしょうか、他の軍人同様、松井将軍は死刑を肯定的に受け入れたでしょう。ただし、Chinaに対する気持ちを理解されないとしたら無念でしょう。同じ死でも無念でしょう。私たちはその無念な気持ちを汲んで日支双方の犠牲に対して悼まなければならないのではないでしょうか。

 

今日は送り盆、神道の家系であってもその御霊は各家でくつろいで帰るのでしょう。思い入れが強すぎて松井石根大将の文章が長くなってしまいました。なぜかと言えば悔しいから。日本人があまりにも関心を持たない。反日義務教育の中で私もA級戦犯は一番悪い人のような刷り込みにあって、この問題は日本人として触れてはいけない恥ずかしい問題だと思いこまされていました。だから戦争犯罪人として刑を負った一人一人にドラマがあって言い分はあったはずですが戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことができたこの裁判の判決を当時受託はしたのは確かですが今振り返って正しかったかの検証はなされるべきでしょう。Chinaを愛した松井石根大将はChinaが建設した南京記念館で堂々と罪悪人として展示され「日本のヒトラー」とさえ呼ばれているそうです。私はそのことが悔しい。本人が一番無念でしょうけれど日本人が一人でも知るきっかけになってほしいという思いです。

A組七人のための殉国七士廟

(じゅんこくしちしびょう)の話をしましょう。

ニュンベルク裁判でC組により死刑執行になった11名の遺骨は埋葬されることを許されず。川に流されます。このことからも報復的な目的があることが分かります。

 

日本にはC組「人道に対する罪」で起訴された人はいません。きっと原子爆弾を落とした人を裁判にかければC組になるでしょう。日本人も公式にはA組戦争犯罪者の遺骨は太平洋に撒かれたことになっています。遺骨の遺族への引渡しはマッカーサーが許しませんでした。

武人が望む死に方といえば切腹。フィリピンで死刑になった本間雅晴中将は銃殺。「さあ来い」が最後の言葉。望まない死に方は絞首刑。A組7人は昭和23年12月23日午前零時に13階段を上ります。処刑後横浜の久保山火葬場で焼いた後、米兵が骨を混ぜ合わせて一つにします。尊厳なんて死んでも与えられません。占領軍は遺骨を太平洋に捨てたと発表。日本人の手のひら返しで「戦争初めて悪いことをしたA級戦犯」という悪いイメージを刷り込み。それに乗る人もいます。多くの日本人はこの粗末な扱いには怒らなかったようです。残念です。

実は遺骨奪還を企てる人がいました。東京裁判の一部弁護士と僧侶。心ある人もいたものです。命がけの奪還です。一部を闇に紛れて持ち出していましたが一度は失敗しクリスマスで手薄になった隙に改めて骨捨て場からすくいあげた骨を持ち帰りしばらくは松井石根大将の興亜観音に安置されていたそうです。

愛知県西尾市東幡豆町に三ヶ根山があります。そこに殉国七士廟が立っていて碑文にこう書かれています。

「昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの三国代表が立ち会い陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師であった。昭和35年に三ヶ根山に廟と墓碑が建立された。七氏を顕彰するためではなく、殉国者を悼むためのものである」

毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭が行われます。現在では殉国七士廟の存在は多くの人々に知られ七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。

昭和54年昭和天皇皇后両陛下は第30回全国植樹祭のご出席の際、植樹祭の行われる場所から距離のあるこの三ケ山の高台のホテルにお泊りになりました。陛下のご要望によってです。ホテルからは「殉国七士廟」や「戦没者慰霊碑」が見える場所です。植樹祭当日 早朝侍従がお迎えに上がったところ両陛下は窓越しに廟にお向かいになられ15分間、黙祈されたそうです。

翌年には上皇后陛下と今上陛下、上皇陛下は七氏の命日(ご自分のお誕生日)に毎年使者をお寄せになるとか。靖国が政治利用され訪れることができない中、天皇はじめ皇族方はA組と呼ばれ無念な思いをしている御霊のことを決してお忘れではないということです。

 

秋篠宮家を侮辱する報道が多いです。後続の権威を貶め不要論を高める目的があると理解しましょう。私はどんな現象が起こっても源流は必ず引き継がれている。男系男子が守られて二千年、三千年と皇室(日本国体)が継続することを信じます。

日清日露大東亜を戦った日本。どの戦争にも開戦と終戦に理由があり天皇が詔(みことのり)を仰せになります。両方書きたいのですが、それは後記事に譲るとし大東亜戦争の終戦の詔勅を取り上げます。戦の詔勅とは日本が開戦終戦する理由を世界や国民に対して宣言するものです。少なくとも天皇のお気持ちが表明されています。この季節どのメディアでも「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の部分だけを繰り返し流します。彼らは何を言いたいのでしょうか。何を印象付けたいのでしょうか。報道機関としてその時の天皇のお気持ちである詔勅を取り上げたことがあるのでしょうか、少なくとも私はテレビや新聞で解説を聞いたことがありません。日本のメディアなのに。だから知らない日本人もいけないと思いますので書いておきます。

【終戦の詔勅】原文

朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス

然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ワラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ  斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク 且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ  若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム  宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ   爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ  

 

 

【終戦の詔勅】現代訳

私は、世界の情勢とわが国の現状とを状況を深く考えあわせ 特な手立てをもってこの事態を収拾しようと決意し私の忠良なる国民に告げる。

私は わが政府に対しアメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国に共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨を通告させた。そもそも わが国民が平穏で安らかに生活できるよう心がけ世界の国々が共に栄えその喜びを共有することは 歴代天皇が手本として遺してきた教えであり私も常に祈ってきたところでもある。よってアメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由も わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって他国の主権を排除したり領土を侵略したりするようなことは、まったく私の意志ではない。 しかしこの戦争が始まってすでに4年が経過し陸海軍の将兵は勇敢に戦い多くの役人たちも職務に励み、一億国民もそれぞれの職域に奉じ最善を尽くしてきたが戦局は必ずしも我がほうに好転せず 世界の情勢もまた日本にとって不利である。そればかりでなく 敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して多くの罪なき人々を殺傷しその惨害がどこまで広がるかはかり知ることができない。このような状況で なおも戦争を続けるなら我が民族の滅亡を招くだけでなく ひいては人類の文明をも打ち壊すことになってしまうであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子である国民を守り歴代天皇の御霊お詫びすることができるであろう。これこそ私が政府に対しポツダム宣言を受託するに至った理由である。

私は、わが国とともに終始亜細亜の解放に努めた友好諸国に対し残念な想いを表明しないわけにはいかない。わが国民でも戦死したり職場で殉職したり不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると悲しみで身も心も裂かれる思いである。また戦争で負傷し空襲などの戦禍に遭って家業を失った人々の生活を考えると深く心を痛めている。考えるに これからわが国が受ける苦難は大変なものだろう。 わが国民の気持ちも私はよく理解している。しかし時代の移り変わりはやむを得ないところであり耐えがたいことを耐えて我慢し難いことも我慢して人類未来の平和を実現するため道を拓いていきたい。

私は今ここに、国体を守り得て(皇統護持)忠良な国民の真心を信じつつ常に国民とともにある。もし感情のままに みだりに争いを起こしたり仲間同士互いに相手を貶し陥しいれたりして時局を混乱させ そのために人間の行うべき道徳を誤って世界から信用を失うようなことがあれば それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く団結し国を子孫に受け継ぎ わが国の不滅を固く信じ 国の再建と繁栄への任務は重く その道のりは遠いことを心に刻み持てる全ての力を未来の建設のために注ぐように。道義心を大切にし志を強くもって わが国の美点を発揮し世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。 わが国民よ、これが私の真意で意のあるところをよく理解して行動してほしい。

 

 

天皇の終戦の詔書の後半にお気持ちが良く出ていますね。堪えがたきを堪え・・が大事なところじゃないのもわかりましたね。なぜ全体を報道機関はもっと取り上げなければならないでしょう。教育勅語を忌避するGHQの教えに忠実なアメポチ日本の報道機関らしい対応です。戦前のものが全て間違っているというGHQのほうが間違っていたと思います。「皆と仲良く力を合わせて伝統を受け継ぎ栄えましょう」と日本人は言ってはいけないそうです。皇祖皇宗歴代天皇の教えですけれども。

 

米国人がいかに日本の天皇を理解できなかったか

分かる逸話を二つ。

 

〈ダグラスマッカーサーの面会〉

昭和20年9月27日、来日に合わせて昭和天皇がマッカーサーのもとへお出ましになった時マッカーサーは他国の戦争指導者同様、天皇陛下が命乞いに来られたと思ったのです。陛下は「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応じる覚悟でおります。しかしながら罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」

と仰せらて菊の御紋の袱紗包みを開けられました。そこには皇室の全財産目録がありました。自分の命はどうなってもよい天皇家の全財産をすべて差し出すので飢えた日本国民を救ってほしいということです。

https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk

 

1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に昭和天皇は日本国内を巡幸されます。各国の戦争指導者がそうだったように。GHQは各地で天皇が罵声を浴びたり暴漢に襲われることを予想していました。ところが各地で大歓迎を受けます。日本人の心が外国人にはわからないのでした。

〈天皇陛下さまが泣いてござった〉

昭和24年5月24日 佐賀県巡幸
この日陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されています。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。

その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦没者に対して詠まれた次の二首です。

 『やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも』

 『なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを』

陛下は、このことをいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。また終戦後には因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。

 

陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいました。その町道の一角には、ある左翼系の男が麦畑を作っていました。この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放してここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていました。朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。群衆の自然の発露として、この声があがりました。

御料車が停車しますと、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、そのあとから陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました。陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。お車を停められたところから、因通寺の門まで約700メートルです。その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。

町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープもありません。陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。そうです。石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。陛下が足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。

そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。

「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました 天皇陛下を目の当たりに・・・・」

そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいました。知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。知事は陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。するとそのとき入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。

この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所についてご説明申し上げることになっていました。自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせた住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。

「本日ここに一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ感激これにすぎたるものはありません」

住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。ところがここまで読み上げたところで、知事の胸にググっと熱いものが突き上げてきました。引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。

意識は、懸命に文字を探そうとしていました。けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまいました。ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。そのとき誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。このときのことを住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上しました。この奏上が終わると、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。

「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が立派な人になるよう心から希望します」

と住職に申されました。住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままなりませんでした。

この挨拶のあと陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな呆然と黙って立っていました。

広島巡幸 1947年12月7日 原爆ドーム

地元の従軍記念碑

すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。

そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。


「どこから?」-「満州から帰りました」-「北朝鮮から帰りました。」すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。そして「おいくつ?」-「七つです」

「五つです」と子供達が答える。すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

 

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

 

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。

 

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に近づかれました。そしてやさしいというより静かなお声で、「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわかりません。
けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
陛下はその二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えました。「はい。これは父と母の位牌です」これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。 母は引揚途中で病のために亡くなりました」この子は、よどむことなく答えました。すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子がそう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい?」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。

お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから私は淋しいことはありません。私は仏の子供です。」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。この子も、じっと陛下を見上げていました。陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。

そのときこの女の子が、小さな声で、「お父さん」と呼んだのです。これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになられます。

山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいました。その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。「どなたが戦死されたのか?」-「息子でございます。たったひとりの息子でございました」そう返事しながら老婆は声を詰まらせました。

「うん、うん」と頷かれながら陛下は「どこで戦死をされたの?」「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。そうなのです。この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。そばにいた者全員が、この様子に涙しました。遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。

 

そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。そこには若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。

実はこの人達は、シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。

そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。そうした意図を知ってか知らずか、陛下はその一団の前で足をお止めになられました。そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられました。「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。

みなさんは外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。そして、「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられました。それは、何も言うことのない、感動と感激の場面でした。

因通寺 御歌の刻まれた梵鐘

いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申しました。すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。
宮中にお帰りになられた陛下は次の歌を詠まれました。

 『みほとけの教へ まもりて すくすくと

     生い育つべき 子らに幸あれ』

(御歌は因通寺の大梵鐘に鋳込まれています)

正義はその国々によって異なるのでしょう。私は少なくとも反日自虐教育によって日本に戦争を肯定する大義などないと思っていました。もちろん負の面もあります。しかし正義もあります。日本人でなければわからない情緒も事情もありました。そういうものを知ったうえで戦争犯罪というものを考え。靖国に詣でます。(何年も行っていませんが)地元の神社にも従軍碑があります。日清日露大東亜に地元から出征して人の名が連ねてあります。感謝です。日本には日本人の理屈があってよいではないですか外国人に理解できなくても。同様に理解できない日本人がいても仕方のないことです。考えは押し付けません。しかし私が大事にしていることも否定しないでほしいと思います。お互いに慰霊すればよいではないですか。顕彰というとちょっと強く感じてしまう人がいるでしょうね。慰霊顕彰という言葉が強く感じるとしたら、それこそが自虐教育の残渣かもしれません。