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社長ブログ

2020年7月の記事一覧

日清日露大東亜(3)日清戦争(勝手に代理戦争)

2020年07月23日

だいぶ記事があいてしまいました。カメの失踪や身体の調子で少々落ち込み気味でした。果たしてこのブログを読んでくれているかたはいるのか。とも思いつつまた書き始めたいと思います。日本神話も空いてしまいました。応神天皇(誉田別命(ほむたわけのみこと))まではまだだいぶあるますが、こちらも復活したいと思います。

 

今回は日清戦争ですね。明治維新→日清→日ロ→大東亜、延いては現代までの歴史は関連しているのですから日本人として無関心ではいけません。ここに書いてあるのは私見です。興味や疑問を持ったら自らから調べましょう。受け売りだけではいけません。

昔から言われるように、地勢的に朝鮮半島は日本列島に突き付けられた匕首(あいくち)です。この地にどのような勢力が生まれるかは日本国にとってとても重要なことでした。明治維新で近代国家に舵を切った日本でしたが、この時の朝鮮半島が不幸にも非常に不安定な空白が生じかねなない状態にあったわけです。不安定な状態というのは野心を持った者に狙われやすいということです。また、国内にも様々な思惑が交錯していた時代でした。

日清戦争までの朝鮮は中国の年号を使う清に従属する半独立国でした。清の属国であったのか冊封体制下にあったかは諸説ありますが、重大な影響を受けていたことは確かです。日本にとって大国清は鎌倉時代からの脅威であり、元寇や白村江で実際に戦った相手です。その大国清がアヘン戦争で英国に蹂躙され香港の割譲(南京条約)同様に米仏にも条約を締結させられました。これにロシアが加わります。

ロシアにとっては隣国清が欧米に占領されてしまうことは脅威でした。海上経由での通商権を狙いますが失敗。ロシアはターゲットを清に絞ります。列強に翻弄される極東という手に汗を握る状況に日本は決断を迫られます。俗にいうロシアの南下が始まりました。激しく国境を恫喝侵犯する外国対し清は有効な処置を取るだけの武力も意思も失いかけてゆきます。

 

維新を遂げた日本の次なるテーマは朝鮮半島の扱いです。清を舞台とした列強との接点。朝鮮半島が落ちれば脅威は直接日本のものになります。カギを握る朝鮮半島は揺れていました。

 

「華夷秩序」という言葉があります。私がChinaを中国と呼ばない理由。中華思想とはChinaが世界の中心の華でありChinaに従属が深い国ほど上位、関係が薄いのは下劣な国という考え方です。この華夷秩序で最も強く結びついている国が清と朝鮮だったのです。(今でも朝鮮半島の人たちが日本を見下すのは華夷秩序に属さなかった日本が野蛮で下等な国としてみえるからです)

 

アジアで唯一の近代国家となろうとした日本にとって、朝鮮半島へのロシアや列強の南下を止めるには朝鮮半島に自立してもらうしかないと考えます。清から切り離す工作もしますが、朝鮮王朝も清との関係を重視する保守派(事大党及び王妃閔妃と閔氏一族)と、日本に倣い改革を実現しようとする改革派(独立党)ができて対立してしまいます。(1884甲申事変で保守派が有利な状態)

 

1894年1月、甲午農民戦争(東学党の乱(不正役人対農民戦争))が起きます。閔氏政権は清に出兵を要請。日本は天津条約(1885年 伊藤博文・李鴻章)に基づき出兵したことで日清戦争に発展します。1886年

日本の派兵は天津条約に基づく合法なものであるとは思いますが日本中心に考えると1886年の清国北洋艦隊水兵が起こした長崎事件による国民感情も含め、朝鮮半島を安定させるためには清を排除して独立させるしかないと考えていた日本政府が仕掛けたといわれても言い訳できません。現に明治天皇は「今回の戦争は朕素より不本意なり、閣臣等戦争の已むべからざるを奏するに依り之をゆるしたるのみ,之を神官及び先帝陵に奉告するは朕甚だくるしむ」と仰せられたと明治天皇記にあります。

大東亜戦争でもそうでしたが天皇でさえ止められないのです。いわば天皇にそれだけの権限があれば、日清戦争も大東亜戦争も起こらなかったのかもしれません。日本政府として清との戦争を決意しました。もちろん日本の国益を考えての事でしたが朝鮮半島を独立させるための代理戦争と言えなくもないと思います。(朝鮮が一致して望んだわけではないので勝手な考えであることは重々承知しています)

 

1894年7月、ロシアの南下の脅威で利害の一致する日英の間で日英通商航海条約が調印され3日後の7月19日、清国に最後通牒を送ります。日本の戦争目的は清の朝鮮への影響力を削ぐものでしたので、朝鮮内の軍事拠点平壌占領と黄海の制海権を確保した段階で目的は遂げたのですが、結果的には国境を越え清国内に入り遼東半島に上陸、旅順や大連まで占領し清国と講和します。日本の勝利です。

 

日本の直接戦闘での傷病者2,647名(うち死者736名)でしたが戦後の死者は10,841名。戦争後に疫病で亡くなった人が圧倒的に多かった。大東亜戦争でもそうでした。外国で戦うことは疫病との闘いでもあるのです。

 

清と戦争したのですから越境とは言わないかもしれませんが、朝鮮から清に越境して占領地を広げたのは

ある意味、列強の真似をしてしまいまったのです。当時はそういう時代だったのですから、現代人がそのことを責めてはいけません。ちょっと奥まで入ったのですが、欧米人には許されても有色人種には許されないということを日本人は知ることになります。それが次回、三国干渉・臥薪嘗胆のお話に続きます。

 

日清日露大東亜(2)先ずは「明治維新」

2020年06月20日

当然歴史とは自らの立ち位置によって異なります。結果は一つですが現実に至った背景や経緯は一人一人の解釈によって異なるでしょうし、時間が経てば経つほど当時の情勢がわからぬものが評価するということになります。背景や経緯ばかりではありません歴史的事実についても評価は変わるのです。

 

初めに申しておきますが、いい国(1192)つくろうと憶えた鎌倉幕府の創建が、幕府の基本的な機能は1185年に完成していたということから今では教科書で1185年になっているそうです。

 

しかし これを「歴史修正主義」という人は

いないでしょう。後から解った事実、経緯や背景から見方は変わるのです。歴史を修正したのではなく、より当時の状況に寄り添って正しいだろうという方向に合わせたということです。現代の尺度で見るべきか、当時の状況から許容すべきかを現代そして未来の人が選ぶということです。

 

しかしここに嘘があってはいけません。嘘や噂話で当時の歴史を語るならば、先人に対する冒涜ということになってしまいます。

 

また私の回りくどい説明から入りました。明治維新の評価も思想信条からも違えば、歴史観からも異なります。判断は読む人に委ねられるので、より正確だと思うこと、より真実と信ずるほうを選択してください。教科書検定しないと選択する教科書で書かれている内容が異ってしまうのです。教科書だってそうなのです。

 

 前置きがなくなりました。明治維新はなぜ起きたのか、私は前項の連続性から地政学的な理由で極浅く説明したいと思います。関心を得た人は自分で調べましょう。知らねばならない歴史です。

江戸幕府は260年間「幕藩体制」を基に統治されてきました。鎖国も現代教科書から消えて言葉になっているそうで、国を一部限定的に開いて、大名に藩を納めさせて監視することで内戦のない260年を築いたわけです。

その前後アジアはどうだったかというと

 

 ・1571年スペインがフィリピンを

  (後にアメリカに代わる)

 ・1602年にオランダは東インド会社を設立し

   香料とコーヒーの輸出を独占、300年支配

 ・1863年にカンボジア1885年にベトナムを

   フランスが

 ・1765年インド1886年ビルマ

   1895年マレーシアをイギリスが

 

次々に植民地にされていたのです。

 

香辛料や石油など天然資源を得て本国を繁栄させていたわけです。東南アジアで植民地にならなかったのはタイくらいだったのです。清もアヘン戦争の不平等条約をきっかけに割譲や租借地として分割されていきます。

 

幕府の統治能力が低下する中、長州藩士、薩摩藩士を中心とする「尊皇攘夷」派の志士が出てきます。反政府の活動家ですから、見方によっては反逆者ですが、天皇を尊び外国を打ち払うという尊王攘夷派の存在の反対側には弱腰で外国を招き入れる危険な幕府という構図があったわけです。

 

1839年アジアの大国清と英国の間にアヘン戦争が起こります。ヨーロッパの対清の権益を実質握っていたのはイギリス。アヘン貿易を禁止する清に対してイギリスは清をアヘン漬けにしていきます。取り締まりを強化する清に砲撃を浴びせて不条理に打ち負かしました。この時割譲されたのが香港。以後香港はイギリスの植民地を経て1997年にChinaに移譲されますが特別行政区となります。(2047年まで社会主義にならない約束が今反故にされようとしていますが)西洋の軍事力との圧倒的な差は日本に伝わり幕府はこれを恐れ増々弱腰になっていき逆に攘夷派は危惧を抱き攘夷を行う意を強くしていきます。

 

日本は資源がなかった故に植民地としての魅力がなかったという説もあります。確かに天然資源も農産物も特に魅力的なものはないけれど地図を見ると地政学的には、よい場所にある島ではあります。

1853年1回目のペリーの来航で尊皇攘夷派の憂いていたことが現実になります。帆船で海運していた程度の社会に蒸気機関に大砲を付けた軍艦が黙々と煙を吐いてやってきて空砲を撃つのですからアジア人は見ただけで降参です。開国を迫るペリーに1回目は検討するということで帰ってもらいましたが約束の1年を待たずにやってきます。

幕府は結局圧力に屈し1854年に「日米和親条約」を締結。イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結ぶのですが外交経験が乏しい上に外法権や関税自主権の放棄等が含まれる不平等条約であったわけです。今でも日米安保条約で不平等な内容が問題になっていますが、そういう点では日本外交は変わっていないのかもしれません。しかし攘夷派の志士は違ったのです。

 

彼らに軍艦が作れるのだから我々も作ろうとなります。1873年(明治6年)に横須賀の造船所にてフランス人の指導の下、日本初の軍艦「清輝」が起工され1875年に竣工。この辺の気概が現代人には受け継がれていないのが残念です。

薩英戦争を御存じでしょうか。1863年の生麦事件(現神奈川県横浜市鶴見区生麦で薩摩藩国父島津久光の行列を馬で横切ったイギリス人を藩士が殺傷した事件、日本では当然でもイギリス人にはわからない)の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこれを排除し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で戦うのですよ。街はだいぶ焼かれたけれど、世界最強のイギリス海軍も横浜に逃げて行ったのだから善戦ですね。今の日本で一地方自治体が他国相手に戦争するなんて考えられませんが。

 

下関戦争を御存じでしょうか。長州藩は下関海峡を通る外国船を無差別に砲撃する攘夷を仕掛けます。1863年と1864年にイギリス・フランス・オランダ・アメリカの列強連合四国との間に武力衝突を起こします。一地方自治体がまた思い切ったことをします。道州制導入ではこんなことも起きるのでしょうか。勝ち目はありませんでしたが、これを戦ってやろうじゃないかっていう気概が現代人としては理解できないながら羨ましくもあります。

 

これらの戦争で幕政下では攘夷が不可能だということを攘夷派は悟り、倒幕運動に拍車がかかります。大政奉還(政(まつりごと)を朝廷にお返ししますという意味の王政復古です)翌年の1868年、鳥羽伏見で衝突した幕府軍は薩英戦争によりイギリスと近くなった薩摩との薩長連合軍の圧倒的兵力の前に勝負にはりませんでした。そのうえ薩長軍に錦の御旗(朝廷軍旗)が揚がり幕府側が朝敵となって明治維新の方向性が決定するのです。明治維新とはある一つの現象ではなくてこれら尊王攘夷運動の主に1953年(ペリー来航)から1867(大政奉還)の約15年間に起きた改革のことをいうのです。政権を力で転覆させた一面も持っていて現代に於いては個人的に肯定できませんが進んだ道は間違っていなかったと思っています。

 

次回は日清戦争です。

 

追悼 横田 滋 様

2020年06月14日

ここでしか発言できない私。この記事が会社のブログに載せることが相応しいのかはご容赦いただきたい。

 

いつかこの日が来るとは思っていたが6月5日に横田めぐみさんの父、滋さんが亡くなった。

心よりご冥福をお祈りします。全く無縁の身だが申し訳ない気持ちになるのはなぜだろうか。

 

横田めぐみさんと私は同じ歳、中学一年生の部活帰りに北朝鮮によって拉致された。

昭和52年(1977年)11月15日の事だ。

 

他にも拉致被害者は多く存在するが当時13歳の少女は他の被害者の証言から同じように袋に入れられて小型船で異国に運ばれ、2度と肉親に逢えぬ身となった。

13歳の自分が同じ状況だったら、どれほどの恐怖と絶望に陥るか。想像するだけで恐ろしい。そして申し訳ない。

 

当時日本国内では単なる行方不明の扱いだった。必死に探しても見つかるはずはない。北朝鮮に拉致されていたのだから。

拉致の可能性を初めてスクープしたのは昭和53年(1978年)の産経新聞だ。 この年は田口八重子さん地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、増本恵子さん、曽我ひとみさん、他が拉致された年でもある。

 

産経の記事は日本海で男女が相次いで失踪する事件を報道したものだ。めぐみさんの拉致から1年しかたっていない。お母さんの早紀江さんが新聞社に問い合わせるものの少女単独の失踪は条件に合わないと言われてしまう。実際には拉致されていたのだが世間的に見過ごされてしまったのだ。

 

昭和55年(1980年)には同じく産経新聞が外国諜報機関関与の疑いとして北朝鮮を意識した報道をする。昭和62年(1987年)には大韓航空機爆破事件が起こり金賢姫は日本の偽造パスポートを用い、教育を受けたのは日本から拉致された李恩恵(田口八重子さんといわれている)だと証言している。

 

平成9年(1997年)同じく産経新聞が横田めぐみさんの拉致の記事を報道する。この時点で拉致から20年。拉致を疑っていたご家族の心中はいかばかりだったか。20年前に予想していた通りだったのだ。拉致被害者家族連絡会が発足し平成14年(2002年)首脳会談にて北朝鮮は日本人拉致を認めた。

 

この間の出来事を私はテレビでリアルタイムにみていた。多くのジャーナリストや政治家は、国家が他国民を拉致するはずがないと言っていた。調査も追及もしなかった。私を含め世の中も所詮他人事だった。私も今は娘がいる。同じ境遇にならなければ想像できないようでは人間ではない。恥ずかしながら自分の娘が、めぐみさんと同じ境遇だったらどうだろうと思うと、ご家族の戦いの40年はあまりに長い、しかも未だ続行中ある。

記者会見で息子さんが言った。「安倍政権が問題なのではなく、40年以上も何もしてこなかった政治家や『北朝鮮が拉致なんかしているはずない』と言ってきたメディアがあったから安倍政権が苦しんでいる」「安倍首相は動いてくださっている。何もやっていない方が政権批判するのは卑怯(ひきょう)だ。的を射ていない発言をするのは、やめてほしい」という言葉。安倍首相を攻める気持ちがあった私も反省することにした。

 

他国でこんな状況が起きたらどうだとよく言わる。

アメリカは本土で自国民が他国の侵入者に拉致され他事がわかったら「遺憾です」で済ませるはずがない。一人の命は地球より重いと言ってテロリストを釈放した政治家が日本にいた。本当に命が地球より重いなら。殺人よりも残酷なこの拉致問題に対して「遺憾です」とは何なのか。

 

他国は見ている。日本国は、日本国民は何をしても「遺憾です」で済ませるのだと。そんな人に国民の命と領土を預けたくはない。

幕末の西郷南洲のように命を捨てる覚悟で訪朝する政治家はいないのか。死んでもいいじゃないか。実を結ばなくても殺されても国内で負け惜しみを言っているより立派だ。個人的な意見だが、そんな政治家が一人くらい出てきてもよさそうなものだが、日本人は情けなくなったものだ。政治が機能しない以上せめて国民の総意は拉致被害者奪還で一致したいものだ。

紫陽花

2020年06月07日

昨夜、埼玉県熊谷地方は1時間に70mm近い雨が降りました。昔からある夕立といえばそうですが、風が強くて植木が折れそうなほど揺れていました。せっかくいい色に変化してきた紫陽花も、風雨に打たれ花が うな垂れてしまっています。(写真は時系列になっています)

 

一番きれいな時期だったのですが、鉢植えなので根がしっかりしていないのです。

 

ここのところ神話ブログはお休みです。亀が行方不明になってから何故か書けなくなっています。言い訳ですが。

見にくいですが紫陽花は4つの鉢に植えられています。

妻の実家が建て替えで解体するときに庭にあった紫陽花を挿し木しました。当時は葉っぱ2~3枚だったのに、生命力の強い木です。たった4年で植木鉢を貫通して動かせません。

強い風雨で心配していたアゲハのサナギも、天候や天敵から逃れるようにプランターでサナギになっています。ここなら安心です。

メダカの水槽には蓮の花が咲き、この前まで亀の本宅だった水槽にはメダカの赤ちゃんが育っています。小さくても自然のものはたくましいものです。人間の力を借りなくても毎年咲くし、毎年生まれて自然に数が調整されます。

 

草花や小動物を見ると人間が思い上がっているように感じられ反省させられます。いろいろなことを教えられます。

藤井一中尉のこと(4)

2020年05月28日

今日、5月28日は藤井一中尉の御命日です。75年が経った今では「天国で家族に再開した日」と言いましょうか。今年は春の彼岸に中尉と御一家の墓参を果たせました。まさか新型コロナの影響がここまで大きくなるとは思いませんでしたが、日本は英霊に守られているということを私は信じています。一人でも多くの人に知ってもらいたいと思います。後の日本のことを頼んだぞと言い残して散華された人たちのことを。

 

事はそんなに単純ではありません。特攻隊の真実を知っている人はごくわずか、私も知っているなどとは恥ずかしくて言えませんが、少なくとも私の知る限りでは悲惨な話です。美談として語られる多くは特攻に行かせた側の伝えた話が元になっており、行かされた側の話は理不尽極まりない体験ものが多いです。

 

まともに飛べない(飛行経験の乏しい)少年兵にまともに飛ぶことができない機(特攻の行われた戦争末期はまともな飛行機が少なかった)をあてがい「とにかく死んで来い」という。少年は純粋な気持ちから乗せられて死に逝く、学徒出身者は理不尽と知りながら逝く、消耗品の扱い。

急角度で船に当たることの難しさ(大変な技術だが殆ど初心者しかいないという現実)堅い船に軽い飛行機が当たるダメージの少なさ、空母を沈めるのは無理。駆逐艦や輸送船がターゲット、英米の技術によりVT信管つきの砲弾が開発される。当たらなくても飛行機の近くで砲弾が破裂してダメージを受ける。船までたどり着けない。そんなことをわかっていてとにかく死に行かせる。

 

藤井中尉は耐えられなかった。妻子がありながら、教官の身でありながら志願する。当然不受理。何度志願しても不受理。それを知った妻と毎夜の口論。ついに妻は娘を連れ心中してしまう。後顧の憂いなく夫が逝けるように。

 

報道統制で、この話は伏せられた。陸軍も中尉の志願を受け入れた。昭和20年5月28日、操縦士ではない中尉に与えられたのは、二式複座戦闘機「屠龍」通信士として小川彰少尉とともに知覧より出撃

5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリーに突入。1機目は戦闘哨戒任務に当った機の攻撃で撃墜。2機目は突入に失敗しロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えたが機は次の瞬間にドレクスラーの真正面方向から突入、艦後部の蒸気パイプを破壊した。

 

ドレクスラーは動力が全停止し、ガソリンによる大きな火災が発生するも砲撃を続け、特攻機3機を撃墜するが艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。

つづけて別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーは2機目の突入後、1分に満たない時間で船尾より沈没。乗員158名死亡52名が負傷。突入した特攻機が双発機であったとの生存者の証言あり(ドレクスラー生存者レユニオン協会とのことだがソースが見つからない) この機は「第45振武隊」二式複座戦闘機「屠龍」と見られている。

 

当日の特攻に参加した隊は別表の通り。私は英霊の皆さん力を合わせて戦った結果だと思いますし、藤井中尉も武勲をたて、お土産として家族に持って逝ったと信じます。

私が毎日通勤で通る道は、昭和19年12月14日、藤井中尉の妻、フクさん・千恵子ちゃん・一子ちゃんが横切った国道140号線、この辺りを横切ったのか、下宿先から直線で2里(8km)冬至の近い赤城おろしの吹きすさぶ暗い夜道を子供連れで何時間かけて歩いたのかと思わぬ日はありません。翌年5月28日、家族みんなが逢えたのでしょう。藤井中尉が約束通り手柄をもって。第四十五振武隊(快心隊は正式に呼ばれた隊名ではありません)

 

米の死者も158名、全員にかけがえのない家族がいたはず。それが戦争、2度と繰り返してはなりません。藤井中尉が言っています。「後の日本のことを頼んだぞ」と。戦争に命を懸けられない日本人、屈するしかないのが現状。日支事変では自重を重ね蜂起せざるを得なくなった。政府は今、遺憾という間違ったメッセージを発しつづけています。戦後75年、実は既に戦時序盤です。後を託された我々が国の防衛を真剣に考えるべき時。政治家よ、「任を放棄するな。国難から目を逸らすな。」という気持ちの一日でした。

 

 

在宅日記 第22回 最終回 長文

2020年05月06日

皆さんお元気ですか。

トリオデザイン事業部の皆さんは出張続きでご苦労様です。くれぐれも自他ともに健康で無事に帰社できますよう祈っています。

 

弊社は5月4日 「型感染症 緊急事態延長対応」(トップページ)で書いてありますように。明日7日より、トリオデザイン事業部以外の在宅を解除しますので在宅日記も今日で一度終わります。

 

社員のどれだけの人が読んでくれていたかわかりませんが、次に在宅日記を書くようなことがないことが望ましいのですが、私の健康上の理由で いつか在宅が再開されることがあるかもしれません。(その時はブログにします)

 

最終回は22日の総括と今後の暮らしについてです。やはり人間社会というものは自宅に引きこもって成り立つものではないとつくづく感じました。健康を損ねて家にいることを余儀なくされている人々の辛さが身に沁みました。外で健康に働けること、外に出て人と交わることの尊さに感謝しなければならないと思いました。

自粛明けの推奨される暮らしについては悲しいですね。感染症対策専門家会議の「新しい生活様式」実践例貼っておくのでクリックしてみてください。会食も宴会もできなくなってしまうでしょう。少なくともワクチンが開発されるまで守らなければならないし、ワクチンができてもインフルエンザがなくならないのと同じく、もう元の世の中には戻らないのです。

 

日本だけ例外ならよかったのですが。現実には外国人が来日するとき或いは日本人が海外に行くとき予防接種をすることが推奨されています。現在でも国々によって特定の感染症(例えば日本脳炎)があるのです。感染症は勝手に広まるのではなくグローバル化や環境破壊によって自らが感染症に近寄って行ってしまっているのでしょう。

適度な距離というものが国々や人、動物や自然界の間になければならないということでしょう。

 

韓国や台湾、ベトナム等がコロナの封じ込めに成功したと言われています。SARSやMERSの経験があったからとマスコミは言いますが、そうではなくて戦時の緊張感が残っているからです。

地域的な災害なら日本国民の倫理観で持ちこたえられても国中が災害地域になった場合、リアルな戦争体験が活きるのです。前にも書きましたが韓国は戦時中なのです。徴兵制があるのです。いつ戦闘再開されても良い備えがあるのです。平和ボケ日本人と比べては失礼というものです。

 

考える機会としては良かったかもしれません。個人としてはどうですか。韓国ではマイナンバーに様々な情報が紐(ひも)づけされ国家が個人を監視できます。情報を開示することも可能です。それを望みますか。国家として食糧自給率、産業のグローバル化をどう考えますか。原材料の禁輸から大東亜戦争が始まったこと知っていますか。今は、外国の圧力で日本の経済を止めることができる時代です。何かあったら要求に屈せざるを得ない社会です。日本は自主独立がもうできない(大同亜戦争後できない)ようになっているのです。あなたはどうやって家族を、地域を社会を国家を守りますか、国が守ってくれるのではないことが分かったでしょう。国民が自助、共助、公助を作るのです。

 

会社も同じ、会社に何かしてもらうんじゃない。自分たちが会社を育てていくのです。そんなことを考える機会になったのではないですか。昨夜も緊急地震速報がありました。いろいろなところが揺れています。そろそろ大きな地震が来るかもしれません。地域的な災害ではなく、もっと広い範囲の災害に備える。国家的な災害について考えておく、それに興味を持って参加していくということが これからの日本人には必要です。

 

自分でいうのもなんですが、我々の世代は少子化という選択をしました。人口を減らすという道を選びました。国が悪いのではありません。自分たちが今の社会を作った。(自分たちの前の世代の影響は当然うけています)のです。日本人がその道を選んだのですから他人のせいにしてはいけません。では、これからの世代の日とはどういう世の中を選択していくのでしょうか。大げさではなく国のことを個人が真剣に考えなければ、今の日本のようなことになってしまいます。

 

私は今の日本がみんなが望んだ社会だとはどうしても思えません。健全な社会だと胸を張って言えないと思います。いえるようならコロナの影響がこんなに長引かないでしょう。マスコミは毎日政治対する不満を取り上げています。自分たちがやれば良いだろうと思います。関東圏は2局のみ他は自主休業とか、やってみなさいと。今(感染症対策期間)の東京にあんなにテレビ局が必要でしょうか。ネットだけで充分。ネット見られない人のためにいくつかの局があればいい。

 

一人一人が未来の社会を日本を真剣に考えましょう。それができないのなら韓国のように全てを国にお任せして管理してもらいましょう。その人の感染ルートが完全に追えます。いつどこで何をしたかを把握されるのです。問題は私は嫌だというのはダメということ、全員がやるかやらないかです。戦時国家とはそういうもの、全員が協力するのかしないのか、協力しない人はスパイ扱いしないといけない社会です。さあ、どちらを望みますか。戦後日本型社会にお別れしなければなりません。全員が高徳を持った国民になるか、国家統制された国民になるか、中間はないものとして考えないといけない時代になります。

 

最終回 すごく長くなってしまいました。

でも 若い人に自覚してもらいたいから書きました。

皆さんの健康と繁栄を常にお祈りしています。

 

在宅日記 第21回 こどもの日

2020年05月05日

皆さんお元気ですか。

 

今日は、こどもの日、祝日法では

「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」とあります。そう、父がない。

 

お母さんが命懸で産むというのは尊いことではありますが占領ど真ん中の日本(昭和23年)で定められたことと関係あるのか。などと私は思ってしまいます。

 

もともと、奈良時代にChinaから渡った端午の節句。つき端(はじめ)の午(馬です牛ではないです)の日と云う意味だったらしいですが午と五の音が同じだから5月5日になったとか、子供に限った日ではなかったのですが、季節の変わり目に無病息災を願う。子供の生存率が低かった昔。子供の成長を祈るのはとても大事なことだったのでしょう。

戦国時代を経てだんだん勇ましいものになっていって ひな人形と同じく上級武士の風習で男の子の日になり、その後 町人まで広がって大東亜戦後に「こどもの日」になったとか、桃の節句が祝日ではないのだから、子供の日でよいけれど、せめて父母に感謝にしましょうよ。と言いたいでところです。

 

私が生まれたとき祖父母とも40代前半、両親は20代、今の自分を考えるとびっくり。祖父は嬉しくて私がお腹にいる間に平屋を2階建てに改築して出産に間に合わせたと生前言っていました。12月生まれなので白黒写真は昭和40年の5月でしょう。この飾りも、祖父が買ってくれたんだろうと思います。子供の頃は、鯉のぼりが羨ましかったけれど。下町のことだから近所にも鯉のぼりを立てられる家などありませんでした。昔の写真を見ると父も母もニコニコしています。

(二人ともお陰様で生きています)

最近、5月5日に兜だけ出すようにしています。子供は娘ですが、両親祖父母のこと、先祖のことを想うために。

 

今、子供がいる家庭が生活が苦しいとか貧困格差だとか言って「子供のいるリスク」なんてマスコミでよく取り上げられていますが、個の増大極まるということでしょう。家族制度を破壊し家庭を分断し、個としてバラバラにすると国がまとまらなくなる。という目的にすっかり乗せられていること。気づかないといけません。

 

端午の節句のような風習も、だんだん薄まってやがて廃れるのでしょう。出生数も毎年最低を更新ですからね。偶然かもしれませんがオレンジ計画とは100年前のアメリカ人も、

よく考えたものです。日の丸がオレンジ色に変わった。

 いつも言いますが、黄泉の比良坂で伊邪那美命が一日に千人殺すと言い、伊邪那岐命は一日に千五百の産屋を立てる(子供を産む)と返す。その心に背いているでしょう。日本が。経済が発達しても人の魂が向上しないのはなぜか、向上しているから少子化だ。という人もいるかもしれませんが、国に何かしてもらうことを望むより。もっと小さい喜びに感謝できないものか。

 

「親に孝養・先祖に供養」を実践すれば見えてくる。自分が幸福だったと思えば、「親の恩を子に返す」という思いも生まれるのですが物質に恵まれた現代人は、自分の幸福度のハードルが上がってしまって、昔の人が喜べたことが喜べなくなっているのです。

 

親のいない人もいる人も、ふた親がいないはずはない、生まれてきただけで感謝しましょう。

今日は父母に感謝しましょう。ほら電話、Web帰省。もういなければ想い祈ればよいです。

 

将来を担う子が幸福になれるよう導きましょう。

ハードルを上げてはいけません。どんな生活の中にも喜びや感謝がたくさんある。見方が悪いから見えないだけです。子供を自分と同じ見方の人間に育てては、子供が不幸です。なんにでも喜んで感謝できる人になったほうが幸せに生きられるでしょう。

 

在宅日記 第20回 小さくても生きてます

2020年05月04日

皆さんお元気ですか。

ハイビスカスの最後の蕾は、やはり黄色でした。これから夏にもう一度花をつけると思いますが赤は咲くでしょうか。

初めは赤と黄色 半々だったのですが。

 

この木も、クレマチスも10年以上経ちますが鉢植えでは大きくなれないですね。

その点、紫陽花(あじさい)は たくましく、鉢なんか関係なく根を地面に張っていきますから、1~2年で大きくなりすぎて、大剪定が必要になります。大きく選定した次の年は花は期待できませんが、庭が狭いので仕方ありません。

 

もう一枚の写真、メダカの赤ちゃん見えますか?100均のバケツが巨大に見えます。昨日は卵だっとのに今朝生まれていました。親が食べてしまうので卵のうちに別にします。

しばらくはエサなしでも。親(天)から与えられた栄養で生きていきます。

そこから先は、やはり100均のすり鉢で餌を粉状にして与えます。

 

初めはヒメダカ(黄色)と黒メダカ半々でしたが 自然の力でしょうか生まれてくるのは黒が多いです。写真にも一匹 白っぽいのが写っています(写真クリック)が、こういったのを集めて品種を作るのでしょう。我が家では放置飼育です。

自然のものは逞しい、勝手に育っていきます。餌をやらなくたって一定数なら苔や落ちてくるもので育つでしょう。毎度言っていますが、生かそうという見えざる力がはたらいているのです。もがき苦しまなくても生きていけるのです。本来は。暴れなけらば水に浮く。慌てて泳ごうとするとかえって沈んでしまう。力を抜きましょう。

 

 

在宅日記 第19回 亀失踪

2020年05月03日

皆さんお元気ですか。

 

今日は祝日法では「日本国憲法の施行を記念し、国の成長を期する」という日ですが、敢えて日章旗を掲揚しないことにしました。今の内閣には期待しましたが、安倍首相でさえ屈してしまう何らかの力が働いているようです。保守・中道・革新・リベラル・無関心の皆さん(私は中道)に総じて評判が悪い内閣になってしまいました。

 

さて、そんなことより本日大変ショックで仕事が手につきません。(宿題が溜まっていて6日までに提出できない焦りが・・・)というのも、11年間共に暮らしてきた最後の亀。亀吾郎が失踪してしまったのです。

 

写真のように島を槽の中央に置いて出られないようにしていたはずなのに、誰かが誘拐したのでしょうか。大きくなっていたので動物ではもっていけないと思うのですが。

300件以上、空き巣に入って関西で御用になった犯人も、取り調べで我が家に来て一周ドアや窓が開いてないか確認したそうです、ただ亀は持っていっても何もならないでしょうし。

 

下の写真は、11年前の写真、一番大きいのが亀吾郎です。大きいと言っても子供の時はゼニガメと呼ばれるくらいですから、500円玉より少し大きいくらいです。亀吾郎は、お祭りのペットショップのくじ引きの景品、断ることもできたのですが娘が責任をもって買うといったのでもらってきました。もう一匹のクサガメは沼で拾ってきた亀太郎、私が昨年不注意で亡くしてしまいました。ミシシッピーの亀吉は甥が縁日で買って飼育放棄したものです、もう何年も前に これも水槽の作りが悪く溺死してしまいました。偶然 亀を3匹飼うようになったのですが、最後に残った亀吾(呼びかた)。一週間前に外に出したばかりだったのに夜蓋をし忘れた私のせいか。冬の間部屋にいるときは毎朝話しかけ、家にいる日は声をかけ、日曜日には必ず水槽を掃除して。何もリアクションはないですが、エサが食べたいときだけ寄ってきて手からエサを食べる。そんな関係でした。人懐こかった亀太郎、臆病だった亀吾郎。亀にも性格があります。

 

亀は案外俊足であっという間に遠くまで行ってしまいます。誰かが飼ってくれるとよいのですが、この陽気では一日外にいたら水が飲めなくて死んでしまいます。こんな形で お別れになってしまうとは とても悲しい日になってしまいました。どこかで生きていけますように。

 

本間拝

 

 

在宅日記 第18回 お仕事ご苦労様

2020年05月02日

クレマチスの蕾がだいぶ開いてきました。今日は30℃を超えるそうです。しかし湿度は低いので爽やかな暑さになるでしょう。

 

季節は例年のごとく進みますが世間は暗くなりがちです。東京の感染者も また100人越えですし、埼玉も多いです。地方は総数は少ないですが、減少傾向の地域と増加が混在しています。正確な数字なのかも不明。せめて気持を明るく持つしかありません。

 

こんな中、我がトリオデザイン事業部は、

九州に出張に行くわけですが(既に一部行っていますが)飛行機が欠航となってしまい全員、自動車移動です。ご苦労様とともに、事故や病気にはくれぐれも注意してください。

 

昨日、神棚の お世話で各所を回りました、

昼時のコンビニは仕事をする車で満車です。

東京や大都市中心の情報が多いので皆、在宅や休業しているかのようですが、地方の土木やモノづくりを担う人達は、お仕事をしているのです。「皆さん お疲れ様、お互い頑張りましょう」という気持ちになります。

 

埼玉、神奈川の感染者が多いのも東京との行き来が多いからです。一極集中は良くないということでしょう。集落という程度の規模は助け合いの観点から人間本来の姿だと思いますが、東京やニューヨーク、その他の国々の感染が爆発しているところの人間の数と密度は、本来の人間の姿からかけ離れているということでしょう。

 

人間らしい、ちょうど良い感じの暮らしが私たちの住む地域なのではないかと思っています。

地震や火山のリスクにも、政治家をはじめ一般市民の皆さんも備えることが必要でしょう。感染症も含め、いろいろなリスクに対応して生きていかなければならないのですから。必ずまた来る

(感染症を含めた災禍)ということを認識して、今回の反省を活かさなけれなりません。