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社長ブログ
2020年4月の記事一覧
2020春 『武漢コロナ禍の中の日本』
2020年04月04日

今年も桜が咲いた。写真は昨年アップした場所と同じく伊弉諾神社前の道。しかし今年は見え方が違う。
自分の心が違うからだ。春から初夏にかけては最も生き生きして好きな季節だが、今年は今一つ明るい気持ちになり切れない。そういう人は多いだろう。
外出を控えている機会に 渡辺 京二 (著)『逝きし世の面影』を読まれることをお勧めする。幕末から明治にかけての日本人が外国人にどう映ったか。現在日本人とは明らかに違う日本人がそこにいる。それを私は劣化として捉えるが、ある人から見ると(市民の権利を優先する人)進化なのかもしれない。しかし当時の多くの外国人が予言したように日本人は滅んだ。その結果がこの『武漢コロナ禍の中の日本』なのだ。
そんな折、インターネット上で
魔魔嘎嘎さん(@MOGAooo)さんの漫画を
台湾史.jp(@TaiwanHistoryJP)さんが紹介しているものをみた。
この漫画が平生私の言っている
『明治日本人最高説』を云い得ていると思ったので
引用させていただいた。
日本は1895年(明治28年)に清から台湾を割譲され統治した。(ちなみに朝鮮併合は1910年(明治43年)から)教育・医療・行政・金融・社会インフラを日本経済の身の丈以上にお金をかけて整備した。強い志を持って取り組んだ幕末-明治人がいたのだ。例として教育において
1.東京帝国大(明治19年)
2.京都帝国大(明治30年)
3.東北帝国大(明治40年)
4.九州帝国大(明治44年)
5.北海道帝国大(大正7年)
6.京城帝国大(朝鮮)(大正13年)
7.台北帝国大(台湾)(昭和3年)
8.大阪帝国大(昭和14年)
大阪帝国大学の前に 朝鮮と台湾に帝国大学を設立したことでもわかる。初めは日本人有利の教育制度であったむきもあるがやがて教育の機会は平等に近いものになっていく。

愛国行進曲にある『四海の人を導きて 正しき平和うち建てん』という気持ちが確かにアジア唯一の5大国に名を連ねた明治日本人にはあったのだが、特に現代の朝鮮、韓国の人には大きなお世話だったのだろう。本当に大きなお世話してしまった。こればかりは当時の日本人に反省してもらいたい。
家庭・学校・職場 全てに於いて劣化した日本人が溢れている。(もちろんその中に私自身も含めなければならない)嘗ての日本人が範たる人々だったため劣化してもアドバンテージがあったのだ。しかしそれも使い果たした。
『マニュアルがないと何もできない』『マニュアルを作るのが仕事になっている』という言葉をあちこちで聞く。
実際、政治に要請されても法律で縛られないと行動も改められないではないか。だから現代日本人には『緊急事態宣言』を発令しても何も変わらないだろう。法的強制力がないからだ。憲法を変えなければ自発的に行動を改められないところまで人心が劣化しているではないか。
明治人が今のインフラを持っていれば武漢コロナも国内では終息したはず。法的な縛りがあっても現代の日本人は公の意識があまりに欠けている。個が増大して国家より市民が上のような意識が一部の人間(多くかもしれない)にあるのがいけない。公共や道徳が優先される時があってもしかるべきと悟るべき。時として自己犠牲も甘受しなければならないと皆が考えるべき。それが有機体としての国家国体の護持に必要。
残念ながら日本国(精神)はすでに何度か絶滅している。でも続いているかのように錯覚しているのは皇室が存続しているからだろう。それも女系(女性ではない)継承で滅びる。そんな日本は見たくないが幸いにして滅びる日本を見ることなく今世を終えるだろう。美しいと思える日本で生きられた事を幸いに思う。(過去形)
His master’s voice =Nipper=
2020年03月29日
フジテレビのワイドナショーのセットに ニッパーが置かれています。私が子供の頃、昭和40年代は家電は街の電気屋さんで買う時代。多くの電気屋さんのショールームにビクターのマスコット、ニッパーの姿を見かけたものです。ああ懐かしき昭和。
社員の皆は当然理解していると思いますが、弊社は 日本ビクター様と御縁があります。日本ビクターは現在、株式会社JVCケンウッドとなっていて我々は工場を譲り受けたのです。神棚にニッパーの枡が祀ってあることを知っていますか。お祝い物の枡2つ、益々(ますます)商売繁盛という意味でJVCケンウッド様より頂きました。
ニッパーの物語知っていますか。それを知らない、知らなくても済ませられるというここをが私には少し寂しく思います。JVC(日本ビクター)様のホームページにもありますがより詳しく解説しますから良く読んでください。

"His Master’s voice"(彼の主人の声)の元は 1899年2月11日に商標登録された
"Dog looking at and listening to a Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)です。
少し切ないお話です。
1884年にイギリスのブリストルで生まれた仔犬は人の足を噛むので「Nipper」と名付けられました。
(工具のニッパーと同じ意)犬種はフォックス・テリア系の雑種といわれています。
初めの飼い主の風景画家 Mark Barraud(マークバロー)はニッパーが3才の時に亡くなり
弟の画家 Francis Barraud(フランシスバロー)に引き取られました。
フランシスは家にあった蓄音機でニッパーに亡き兄マークの声を聞かせます。小首をかしげて不思議そうにラッパを見つめるニッパーの姿を描きました。
ニッパーの死後(11才でした)3年目に蓄音機メーカーEdison-Bell Company(ベル社)の蓄音機を聴いている
"Dog looking at and listeninga Phonograph"(蓄音機を見て聴いている犬)として描き商標登録し同社に売り込もうとするも拒否されました。後にGramophone Company(グラモフォン社)でWilliam Owen(ウィリアムオーエン)から絵の蓄音機をベル社からグラモフォンに描きかえれば絵を買い取るといわれ、タイトルを"His Master’s voice"(彼の主人の声)とした絵が今に伝わっているのです。
変遷 → グラモフォン・カンパニー(レコード会社)1899年商標登録
→ ベルリーナ・グラモフォン社(親会社)1900年広告に使われる1910年最終登録
→ "His Master’s voice"の略 HMVという名のグラモフォン社小売部門設立
→ グラモフォン社→米ビクタートーキングマシン社設立 1901年
→ RCA社がビクタートーキングマシン社を吸収合併 1929年
→ 日本法人 日本ビクター蓄音器株式会社 設立 1927年 のちに親会社がRCAに
→ JVC・ケンウッド・ホールディングス株式会社を設立 2008年
→ 株式会社JVCケンウッドとなる 2011年
ニッパーの絵の商標権や会社の変遷は、この項では重要ではありません。
元の円筒型蓄音器は録音も再生もできるのでニッパーは亡兄の声を聴けたのですが
描き直された円盤式蓄音器は再生専用、商標登録用の絵です。しかしそれも問題ではありません。
亡き飼い主の声を小首をかしげて聴いて不思議そうにしている姿。円筒式蓄音機の白黒の絵。描いた人の心理も反映しているのでしょうが このニッパーのどこか悲しげな表情が、なんともいえず心に響きます。そこから何を感じるか。135年近く前に生まれた一匹の犬。その姿を大切にしてきた人々。長い歴史との縁。それらを我々がどう感じるかということが大切なのです。

1927年設立の日本ビクター蓄音器株式会社は1939年に日本初のテレビジョン受像機を完成させ今でも自ら
「時代をつくる」ブランドです。と謳っています。
ホームページには 『私達は、夢や感動を創造し、有機的な人との繋がりによって、人々を音楽で幸せにすることを私達の使命として、また経営理念として常に念頭に置きながら、従業員一丸となり努力とチャレンジを続けています。』とあります。
私たち株式会社サンエイも規模は大きく違いますが ご縁のある者として それに学び恥じぬような仕事をしていかなければならないと思います。
藤井一中尉のこと。(4) お彼岸にて2
2020年03月21日
藤井中尉のことで不思議なご縁がありましたので記させていただきます。
お供えする花を中尉が仮住まいしていた深谷市で求めようと妻が時々行く花屋さんに一緒に行きました。私は初めてでしたが、藤井中尉の資料も持っていきました。対応に出たのは息子さんでしたが戦時中のことを聞くと御主人(お父さん)を呼んでくれました。私が藤井中尉のことを話し○○屋の○○さんの家に住んでいたのですが○○屋さんのこと ご存じないかと問うと同級生の○○君の家が昔○○屋だった記憶があるとその場で電話をしてくれました。
同級生といっても ご主人も昭和18年生まれです。
途中で電話を替わっていただくと正にそのかたの実家が下宿先でした。早速、翌日お墓参りの帰りにアポイントもなく寄らせていただくと、花屋さんの同級生の兄嫁さん(お兄さんはお亡くなりになったそうです)に お茶をいただいたうえ藤井中尉のお世話をしていた お義母さんの自叙伝 タイトル「有終の日々に生きて」(非買と聞きましたが3000円となっています)を お貸しいただきました。200頁のほとんどが御当家のお話ですがその中の5頁
藤井中尉家族の部分以下に転載させていただきます。

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12特攻隊藤井肇中尉 一家の悲劇
年の瀬もせまったある日のこと○○さん(○○さんのお姉さん)より次のような手紙を頂きました。
「昭和六十年の朝日新聞に、戦時中は実に様々な記事 の差止め命令をされていたという例として、勝井中尉の事が出ていました。それで、私はこのまま埋もれさせてしまうのは、藤井一家が浮かばれないと思い、投書しました所 取り上げられた訳なのです。
記者の方から、この悲劇を埋もれさせてはならない、世に知らせなければならない、是非協力してほしいとの電話がありました。私は○○さんなら何から何までご存知なので、お許し頂きませんのに朝日の方に紹介申し上げました。何かと ご迷感をおかけすると存じますが、お許し下さい。」
二、三日して朝日新聞から私に電話があり、藤井中尉のことについて聞かせてほしいとの事ですが、電話ではとても話し切れません.一応お話ししましたが、四十年経った今日では今更の様に頭に痛くひびきお手紙差し上げる必要もないとは思いましたが、何となく物足りなさで後味が悪く筆を取りました。
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前略
あの痛ましい藤井中尉夫人の当時の話を聞いてあげてください。
戦争は日々激しくなって、三ヶ尻の飛行場には沢山の兵士達が来ましたが、宿舎に困り、空室のある家は軍人に
貸すようにとの指令がありました。私どもにも奥座敷に八畳二間空いていましたので、町内会長の役柄率先して中尉に貸すことにしました。
中尉は○○県の農家の長男、奥さんは○○のサラリーマンの娘でした。四歳と二歳の娘さんがいました。戦争さえなければ平和な家庭が築かれていたのに、益々 戦争は激しくなりました。特攻隊員は日に日に数を憎し、敵陣目掛けて散って行きます。中尉も指を切り、日の丸に血書を書いて特攻隊に志願し、覚悟を決めていたとの事です。毎晩のように、奥さんは何とかして思いとどまる様申しましたが、覚悟は堅く堅く私が言う事など耳を貸しません。 と涙ながらに語りました。
その上、中尉は私の戦死の後は長男の嫁だから○○帰り、両親の面倒は勿論の事、農業もやる様にと申したそうです。戦争中の事もあってでしょうか、○○の方では畑に行くのに子供を紐で大黒柱に縛りつけて行くのだと悲痛の面持ちで私に語ります。それがどんなにか、農業もやった事のない奥さんには大きなショックを受けたのでしょう。
忘れもしない昭和十九年十二月十四日のあの頃は、北風が冷たく頬を刺す様な日でした。四時頃、余所行のねんねこ半纏を着て四歳の一子ちゃんの手を引いて お使いに行って来ますと出かけました。夜になっても奥座敷は真暗、そこに中尉が帰ってきました。
家内は何時頃に出掛けたでしょう、と聞きましたので四時頃と答えました。すぐに奥さんの実家に行きましたがいません。すぐ警察に捜索願いを出し、部下を連れて四方八方探しましたが見当らず、翌朝荒川の熊谷大橋の下流百米位のところに水死体となって見つかりました。一人はおんぶ、一子ちゃんは太い紐でお母さんと離れないように結わいつけであったそうです。砂だらけの遺体を毛布に包み帰って来ました。
私は三人の躯をお湯ですっかり綺麗にふいて着物を着替えさせてやリましたが、あまりにも哀れで涙もでませんでした。中尉は、しばらく遺体にすがっていましたが、すぐ後から行くからといいながら綺麗にお化粧して上げました。少しも病みませんので生きている様でした。 燈火管制の厳しい折でしたから、飛行場から毛布を沢山持って来て、八畳二間を燈の漏れない様に囲み、その晩隊長も来てお通夜をし、翌日火葬にしました。
両家の人たちと私の家族の者とだけでひっそりと火葬をすませました。三つの白木の箱を包む風呂敷を、私は三枚差し上げて包み、 ささやかに告別式を行い中尉は三つの遺骨を抱えて○○に帰りました。
戦時中の事で誰もよく知らないのに、○○さんは若かったのによく覚えていて下さいました。もう、戦争はこりごりです。藤井中尉も特攻隊として武勲を立ててお国の為に散っていった事でしょう。
藤井中尉ご一家の冥福を祈り、世の中が情操豊かな明るい住み良い社会になる事を祈ってやみません。
終りに、朝日新聞社の益々の御発展を祈念いたします。
昭和六十年十二月
朝日新聞編集部 ○○様
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この手紙を新聞社に送りました後、編集部の○○様は二回私どもに見えられ三ヶ尻飛行場や熊谷大橋の現場も私と一緒にみてまいりました。
このような事件はたくさんあったでしょうが、戦時中は情報は全くありませんので埋もれて失ったのでしょう。
靖国神社のあの大鳥居をくぐると、ひとりでに身近な神々が頭に浮かび涙がとめどなく落ちました。
今はもう年老いて参拝もかないません。大勢の神々のお陰で日本も豊かになりましたが、この儘何年続くやらと老婆心ながら不安を感ずる今日此の頃です。
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「戦争はもうこりごりです」という言葉が重いです。単に自分の生活が苦しかったとか、身内が亡くなったとかだけでなく、他人の悲劇も経験した人は自らの事と捉えておられるのでしょう。私は駆逐艦ドレクスラーを沈めたのは藤井中尉の屠龍だと思っていますが ドレクスラーも死者158人出していて、皆家族がいたわけです。戦勝に勝者がいるのか。戦争の勝者とは悲しいかな面の皮の厚い戦勝/敗戦利得主義者だけなのです。
藤井一中尉のこと。(3) お彼岸にて
2020年03月21日
今年の春の彼岸は、7箇所のお墓参りに行きました。真っ先に念願の藤井一中尉ご一家のところにもうかがいました。遅すぎたなぁ と思います。大東亜戦争は遠い昔の祖先のものになりつつあります。現代の戦争はソフトな戦いです。経済や資源および人材の依存や力を背景とした威嚇によって、相手を屈服させるものになっています。現代のわれわれはそれに備えねばなりません。
75年前は武力を行使した戦争でした。当時の日本人は、当時の価値観の中で戦いました。しかし私の持論ですが既に大正から昭和にかけては日本人の劣化が始まっていました。簡単で申し訳ありませんが海軍は士官を特攻に行かせず温存。陸軍は海への攻撃前提で訓練していないのに机上の空論による特攻。司令官、参謀クラスはド素人の逃げ回り、陸海ともイジメ体質。結局命を差し出したのは下士官や兵ばかり。
藤井中尉がどうしても我慢できなかったこと、自分のことのようにわかります。でも私には絶対できなかったと思います。特攻という行為は大西瀧二郎中将のいうように統率の外道、当時でも多くの反対者がいたようにやってはならない ある意味日本軍の恥部であり同時に散華された英霊は顕彰しなければならない存在です。
以前に書きましたが出征はしたものの敵の姿を一度も見ることなく、病気になって戦友に迷惑をかけ湿地で足が抜けなくなったまま死んでしまったような方々が沢山いたわけです。靖国で英霊なんて呼ばれてよいのかな。と思っている方々に心からお礼します。出征していただいただけで充分英霊です ありがとうございます。

散華した英霊とそのご家族がずっと大切にされる存在なら良いのですが僅か75年で日本の墓参りも変わりました。いつまでこのような風習が残るのか疑問です。藤井中尉の墓所には彼岸の入りの昼に伺いましたが、既に献花がされていました。ご家族でしょうか ほっとしました。私は今回 許可を取って伺いましたが もうそっとしておいてほしいというニュアンスだったこと書き添えておきます。
藤井中尉のこと語り継いでいかなければならないと思っている方、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。私はもちろんそう思っていますし、ある意味その役目が自分にあるのではないかと勝手に思っています。
藤井中尉ご一家のことを想う人のために、墓石に刻まれた文字を謹んで写させていただきました。個人名の部分は○○とさせていただきました。
昭和廿年五月二十八日 戦死 俗名 藤井一 行年 三十一才
昭和十九年十二月十五日 同人妻 同 ふく 同 二十五才
昭和十九年十二月十五日 一ノ長女 同 一子 四才
昭和十九年十二月十五日 一ノ次女 同 千恵子 一才
日本神話(20)天の岩屋戸隠れ 本当は天の岩屋戸籠(こも)り
2020年03月21日
天の岩屋戸隠れのくだりは、隠(かく)れるという言葉が定着してしまっている感がありますが、これは本来の意味は籠(こも)るです。天照大御神が驚いて隠れたというのは間違いというより少し理解が浅いと思います。闇は闇というものがあるのではなく光の不在だというのは、谷口雅春先生の言葉ですが、天照大御神は自らのお考えで岩屋戸にお籠りになったのです、これは光の不在、闇の中で様々な禍(わざわい)が出現します。今もコロナ騒ぎでだんだん世の中が暗くなっており光が遮られようとしています。光の不在の状態に近づきつつあります。さて、神々はどんな方法で この危機を乗り越えたのでしょうか。参考になります。

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是(ここ)を以(も)て八百萬(やおよろず)の神 天安之河原(あめのやすのかわら)に神集(かむつど)ひ集(つど)ひて、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)の子(みこ) 思金神(おもいがねのかみ)に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集(つど)へて鳴かしめて、天安之河の河上(かわら)の天堅石(あめのかたしわ)を取り、天金山(あめのかなやま)の鐵(かね)を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまうら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度賣命(いしこりどめのみこと)に科(おお)せて鏡を作らしめ、玉祖命(たまのやのみこと)に科(おお)せて、八尺勾璁(やさかのまがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流(みすまる)の玉(たま)を作らしめて天児屋命(あめのこやねのみこと)布刀玉命(ふとたまのみこと)を召びて、天香山(あめのかぐやま)の眞男鹿(まおしか)の肩を内抜(うつぬき)きに抜きて、天香山(あめのかぐやま)の天波波迦(あめのははか)を取りて、占合(うら)へ麻迦那波(まかなわ)しめて、天香山の五百津眞賢木(いほつまさかき)を根許士(ねこじ)に許士(こじ)て、
上枝(ほつえ)に八尺勾璁(やさかのまがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流の玉(みすまるのたま)を取り著(つ)け、中枝(なかつえ)に八咫鏡(やたのかがみ)を取り繋け、下枝(しずえ)に白丹寸手(しろにぎて)青丹寸手(あおにぎて)を取り垂(し)でて、此(こ)の種種(くさぐさ)の物は布刀玉命(ふとたまのみこと)布刀御幣(ふとみてぐら)を取り持たして、天児屋命(あめのこやねのみこと)布刀詔戸言祷(ふとのりとごとね)ぎ白(もう)して、天手力男神(あめのたじからおのかみ)、戸(みと)の掖(わき)に隠(かく)り立たして、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)天香山の天之日影(あめのひかげ)を手次(たすき)に繁(か)けて天之眞拆(あめのまさき)を鬘(かづら)と為(し)て、天香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐあ)に結(ゆ)ひて、天之岩屋戸(あめのいわやど)に汙気伏(うけふ)せて、踏(ふ)み登抒呂許(とどろこ)し、神懸(かむかがり)為(し)て胸乳(むなじ)を掛(か)き出で、裳緒(もひも)を番登(ほと)に忍(お)し垂(た)れき。爾(かれ)高天原(たかあまはら)動(ゆす)りて、八百萬神(やおよろずのかみ)共(とも)に咲(わら)ひき。
於是(ここに)天照大御神(あまてらすおおみかみ)怪(あや)しと以為(おも)ほして、天岩屋戸(あめのいわやど)を細めに開きて、内より告(の)りたまへるは、「吾(あ)が隠(こも)り坐(ま)すに因(よ)りて、天原自(あまはらおのず)から闇(くら)く、葦原中國(あしはらなかつくに)も皆闇(みなくら)からむと以為(おも)ふを、何由以(なにとかも)天宇受賣(あめのうずめ)は楽(あそび)し、亦(また)八百萬神(やおよろずのかみ)諸咲(みなわら)ふぞ」とのりたまひき、爾(すなわ)ち天宇受賣(あめのうずめ)、「汝(な)が命(みことに)に益(ま)さりて貴(とうと)き神(かみ)坐(いま)すが故(ゆえ)に、歓喜(よろこ)び咲楽(えら)ぐ」と言(もう)しき。如此言(かくもう)す間(あいだ)に、天児屋命(あめのこやねのみこと)布刀玉命(ふとたまのみこと)其(そ)の鏡(かがみ)を指(さ)し出(い)でて、天照大御神(あまてらすおおみかみ)に示(み)せ奉(まつ)る時に、天照大御神(あまてらすおおみかみ)愈奇(いよいよあやし)しと思(おも)ほして稍戸(ややと)より出(い)でて臨(のぞ)み坐(ま)す時に、其(そ)の隠(こも)り立てる天手力男神(たじからおのかみ)、其(そ)の御手(みて)を取りて引(ひ)き出(いだ)しまつりき。即(すなわ)ち布刀玉命(ふとたまのみこと)尻久米縄(しりくめなわ)を其(そ)の御後方(みしりえ)に控(ひ)き渡して「此(ここ)より内(うち)にな還(かえ)り入(い)りましそ」と白言(もう)しき。
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天の岩屋戸のくだり
あらゆる神々(八百萬)が天安之河原に集まって対策会議を開き、ここは造化三神(一番初めにご登場の姿のない神様)高御産巣日神の子(みこ)知恵の神でもある思金神(日本書紀では思兼神)(おもいがねのかみ)に御指導いただこうということになりました。その内容とは。
- ①常世の長鳴き鳥を集めて鳴かせる(夜明けをおもわせる)
- ②天金山の鐵(かね)で鏡を作る(八尺鏡 皇室の三種の神器現代に伝承)
- ③八尺勾璁の五百津の美須麻流(みすまる)の玉(たま)を作る(八尺勾璁 皇室の三種の神器現代に伝承)
- ④天香山の五百津眞賢木(いほつまさかき)を根っこから持ってくる
- ⑤上枝に美須麻流の玉 中枝に鏡 下枝に白・青の和幣(にぎて)を垂らす
- ⑥鹿の肩甲骨を焼き割れ目の模様で占なう(答え合わせと確認の儀式)
- ⑦天児屋命布刀詔戸言祷(ふとのりとごとね)ぎ白す(祝詞をあげる)
- ⑧天手力男神を岩戸のわきに隠れ立たす
- ⑨天宇受賣命が小竹葉を手に天之眞拆を鬘に神懸りし胸もあらわに踊る
- ⑩八百萬神がそれを見て愉快に笑う
天照大御神は外の様子がおかしい、高天原(天上界)も葦原中國(地上界)も光の不在の状態なのにこのにぎやかさは何。とお思いになります。お籠で御自らの御立場についても整理がついたのでしょう。ちょっと戸を開けて聞いてみます。「天上開も地上界も暗いはずなのに天宇受賣は楽しそうに踊り八百萬神は笑っているのか」と、天宇受賣は答えます「天照大御神様に遜色ない貴い神様が お出ましになったので歓んでいるのです」その時、天児屋命、布刀玉命が鏡を差し出します。どんな神様だとさらに戸を開いて覗こうとしたとき天手力男神が御手を取り岩屋戸よりお出ましになったのです。岩屋戸は天手力男神が放り投げて戸隠山(長野県)に当たって山が今の形になったという伝説があります。尻久米縄を引き渡したことが注連縄(結界縄)の起源とも言われています。
ということで、天上界、地上界とも光が差し込んだことで闇が駆逐され、すべてが明るく生き生きと復活した次第です。思金神、天宇受賣命は後でまた御出ましになります。
中村天風先生の言葉にも「人生あまり難しく考えなさんな。暗かったら窓を開けろ、光がさしてくる」というのがあります。光は元々射しているのです。それにカーテンや戸を立てているのは私たちのほう。暗い時こそ明るく前向きに取り組むことの必要性がこの神話によって諭されていると思うのは私だけでしょうか。
新型コロナウィルスの影響が世界中で大変なことになっています。これからの状況読めませんが、私たちは今回紹介した神話を戴き、日清・日露・大東亜、隠忍自重・臥薪嘗胆の先祖を持つ民族であることを忘れているでしょう。思い出しましょう。こんな時こそ天照大御神の御出ましを待ちましょう。ちょっと日が陰っていますが、その上には常に燦燦と太陽が照り輝いているのです。明けない夜はないのです。
久々に身体のこと。これからと自分の考え
2020年03月14日
色々な方に私の身体の心配をいただいているので、今現在の状況と自分の考えを記しておこうと思います。
零細企業の社長として、これを書き残すことが良いのか悪いのかは わかりませんが、何よりもこのような状況でも今のころ前向きに生きていること(生かされていること)こからもっと厳しい状態になっても、気力を失わずに何らかの形で社会貢献していく意欲を持っていることは、お伝えしたいと思います。

先ずは状況からですが、検査結果を貼りました。
上の赤線がeGFRという糸球体濾過量(しきゅうたいろかりょう)でどれだけ腎臓が機能しているかという数字です。30%以下は重度腎不全の領域。沈黙の臓器である腎臓は機能低下が現れたら既に相当悪化しており、その後の推移は加速度的に悪くなるのが常です。私の場合は『多発性嚢胞腎』という遺伝性腎疾患の難病で 母はeGFRが10を切り人工透析しています。この難病は腎臓内に水胞できて徐々に大きくなり腎機能が低下します。難病の定義は原因不明で治療法がない進行性の病です。薬は頂いても治りません。嚢胞は肝臓他の臓器にも転移します。
下の赤線はLVEFという心室収縮機能の指標でポンプ機能を示す左室駆出率です。これも30%を切ると重度心不全の領域。診断名は『拡張型心筋症』=難病です。腎臓は透析すればよいですが、心臓は交換する以外治癒しないといわれています。発症7年、その場で入院となった時LVEF10以下(首から心臓にカテーテル挿入治療)3週間退院後の一番良い時で40、その後30台をキープしてきたのですが 昨年急に20%台に入ってしまいました。
心臓も腎臓も血圧を下げる治療は同じですが、決定的に違うのが水分です。心臓は負担軽減のため身体を脱水に近い状態にするのが理想です。ですから降圧剤と利尿剤が処方されます。しかし逆に腎臓は脱水が禁忌です。利尿促進は腎機に悪いのです。これまで人工透析が嫌で腎臓の数値を下げないように薬を処方してもらってきました。そうしたら心機能が低下してしまいました。病院も埼玉医大の腎臓高血圧科に行っていましたが、県立循環器呼吸器病センター(心不全で入院した)に戻してもらいました。
そうです。腎臓はある程度諦めて心臓を温存する方向にしたのです。
しかし少しショックなことがありました。一般的に人工透析は腕にシャントというものを作ります。これは透析時に普通の血管に針を刺したのでは流量が足りないので、腕の血管の動脈と静脈を直接つなぐ手術をして流量を上げてそこに針を刺すのです。シャントでは血が流れる音がして血管が膨張します。それだけ心臓にも負担がかかるのです。そのためLVEF30%以下ではシャントが作れないと言われました。
私は腎臓が悪くなったら透析すれば良いのだと漠然と思っていたところに現実を告げられてとてもショックでした。透析も嫌です。年間に500万円も掛かるのですよ。しかも本人負担は月1万円。残りはお国に、健常な皆さんの税金や保険料で面倒をみていただくわけです。肉体的精神的な苦痛(それで自殺してしまう人もいるそうですが)以上に そのことを思うと感謝以上に申し訳なさが湧いてきます。だから2型糖尿病など防げる可能性があるのに透析になる恐れのある人は心から注意するようお願いします。
残された現実的な最善の道は腹膜透析をしながら仕事を継続すること。腹膜透析はカテーテルを常に自分の身体に挿入しておき、腹膜を使って濾過する方法です。透析液と廃液のパックを繋いで日中に行う方法は透析液のパックは点滴のようにぶら下げて排液のパックは下に置き落差で透析するのです。血液透析と違って毎日、朝昼晩3回ほど行わなければなりません。(夜間機械で行う方法もありますがいずれも毎日です) しかし、重大な問題は今のところ腹膜透析は腹膜の状態から5年から7年ほどでできなくなるという事です。私は新社屋の返済期間である10年働きたいと考えていたのですが、心臓と腎臓がそこまで持つかわかりません。否々、自分の運命は誰にもわからないのですが確率的にはどうでしょう。 次に私の考えを述べさせていただきます。
私は自称『光明思想』を学ぶものとしてこの状況に対峙していくつもりでいます。誰もが そこに、今の場所に「置かれる」のです。それぞれの役割をもって。自らの置かれた状況や原因は自らが深慮反省して、そこから何かを学ばないといけないと思います。そしてその状況の中でベストを尽くすことが、その環境を与えられたものの使命です。その点からいって今私の置かれた立場は、この状況からどんなことをして自分だけが抜け出すかではなく、この現実を受け止めて多くの人が選択できる方法でどう生きることを示すかではないかと思っています。ですから私は発信し続けたいと思います。私がこの先どのように社会とかかわっていけるかを。腎臓も心臓もストレスはいけないと言われます。ストレスのない零細企業の経営者がいるでしょうか、大なり小なり全ての人にはストレスがあります。そんな中で病気になる人とならない人がいるならば、病気にならない生きかたを多くの人にしていただきたいものです。
私は思います。大東亜戦争を生きた人、偶然知った藤井一中尉ご一家の顛末。ほんの何年か運命がずれていたら、きっとあの悲劇は起こらなかった。しかし、あの時代だったからばこそ私たちに残していただいた教訓として大きく残るのだと。残さなければならないのだと。
私の親族でも大好きだった祖母や それ以前の会ったことのない親族について考えます。代々我が母家系は腎臓や心臓が原因で早世したものが多いのです。叔父は48歳、又従兄弟は39歳。今の時代だったら死なずに済んだかもしれない。今だったら・・しかし今ではなかったことに意味があると思うのです。あの時代にああいう形で亡くなったので今の私に伝わるものがあるのだと。ならば私も、もっと未来に生きたなら とか人と違う特別な治療法を受けて逃れようということではなく、今の時代多くの人が選択せざるを得ない方法の中で自ら選択して前向きに生きることを見せることが、きっと誰かの心の中に私の生き方の教訓として残ってくれるのではないかと。
ご心配いただく多くの方に感謝します。皆様ありがとうございます。
そしてお約束します。いつになるかわかりませんが、お別れの最後まで逃げることなく自暴自棄に陥ることなく
明るくベストを尽くし生き切ることを。
日本神話(19)かちさび/詔(の)り直(なお)し/天の岩屋戸隠れ(序)
2020年03月07日
建速須佐之男命は清明心(せいめいしん)が手弱女(たわやめ)=たおやかな三女神を生んだので私の勝ちだとお考えになったのですが、そこに天照大御神のお力もあるということには思いが到らなかったのです。
一般的に 須佐之男命に起ったこの御心を勝佐備(かちさび)として慢心のような意味にとられがちですが、私は自信(確信)をもったというニュアンスだと思います。その確信がその後の行動を過激にするのですが、元々、御名の通り力強く行動力のある神様ですから、その探求心が自信を持った場合、高天原の神々には大変乱暴な行いに見えたのです。
建速須佐之男命の探求は、父神、伊邪那岐命から授かった「汝が命は、海原を知らせ」という御言葉に通じます。海原とは地上世界である葦原中国(あしはらのなかつくに)のことです。地上界で役に立つ研究をなさっていたということです。
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爾(ここ)に速須佐之男命 天照大御神に白(もう)たまわく 「我が心清明(こころあか)きが故(ゆえ)に、我が生めりし子(みこ)手弱女(たわやめ)得つ。此(これ)に因(よ)りて言(もう)さば、自(おのづか)ら我勝(われか)ちぬ」と言ひて、勝(かと)ちさびに、天照大御神の営田(みつくだ)の阿離(あはな)ち、溝埋(みぞうめ)、亦其(またそ)の、大嘗(おおにえ)聞(きこ)し看(め)す殿(との)に屎(くそ)まり散(ちら)しき。
故(かれ)然(し)か為(す)れども、天照大御神は、とがめずして告(の)りたまわく、屎如(くそなす)は、酔(よ)いて吐(は)き散らすとこそ、我(あ)那勢命如此爲(なせのみことかくし)つらめ。又田の阿離(あはなち)溝埋(みぞう)むるは、地(ところ)をあたらしとこそ我(あ)那勢命如此爲(なせのみことかくし)つらめと、詔(の)り直(なお)したまえども、猶其(なお)その悪(あ)しき態(わざ)止あ(や)まずて、轉(うた)てあり。
天照大御神、忌服屋(いみはたや)に坐(ま)しまして、神御衣(かむみそ)織(お)らしめたまう時に、其(そ)の服屋(はたや)の頂(むね)を穿(うが)ちて、天斑馬(あめのふちこま)を逆剥(さかは)ぎ剥(は)ぎて、堕(おと)し入るる時に、天衣織女(あめのみそおりめ見驚(みどおどろ)きて、梭(ひ)に陰上(ほと)を衝(つ)きて死(みう)せにき。
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須佐之男命 荒備(あらび)のくだり

天照大御神の営田の畔を壊したり用水路を埋めたり、お食事処である大嘗殿に屎尿を撒くという行いに出ます。
それでも天照大御神は咎(とが)めることをせず、各々の行為は場所と時期が異なれば有益あったかもしてない、今回のことは きっと事情があってのことだと御自らも詔(の)り直(なお)しによって、起きた現象の正しいところを観ようとされるのです。
建速須佐之男命のここまでは主に稲作についての探求でしたが 天斑馬を逆剥ぎにして神様に献上する神御衣を織る服屋の屋根から放り込み、それに驚いた織女(おりめ)の陰上(ほと)に 機織りの際、横糸を通す道具である梭(ひ)が刺さって死んでしまいます。
ここに及んで天照大御神は自らの御心も反省してみようと、お考えになり天岩戸にお籠りになるわけです。
(伊邪那美命も機織女も陰上の傷が元でお隠れになる事が興味深いです)
天斑馬を逆剥ぎについては、地上の生活に於いての肉食或いは、動物の毛皮の利用等の研究ということが当たると思います。我々人間は、自分では手を下さずともそれ等を自然に利用しています。神々に使命を託された人が、現代に於いてもその役目を果たされているわけです。
多くの解説書(者)は、須佐之男命の乱暴にびっくりして、天照大御神が逃げ隠れてしまう。としていますが、
私の解釈ではそうではありません。古事記は日本人の理念が書かれていると信じていますから、天照大御神が逃げ隠れるなど信じるわけには参りません。そんな弱い心からの行いではないのです。
日本人には、どんな局面においても事物の明るい面を観、自らを反省し前向きにとらえ、進歩向上の力に変換するという力を持っている(た)のです。思い出しましょう。それが光明思想ともいうのです。
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故是(かれここ)に天照大御神 見畏(みかしこ)みて天岩屋戸(あまのいわやど)を閇(た)てて、刺しこもり坐(ま)ましましき。
爾(すなわ)ち、高天原(たかあまはら)皆暗く、葦原中國(あしはらのなかつくに)悉(ことごと)に闇し。
此(こ)に因(よ)り常夜(とこよ)往(ゆ)く。是(ここ)萬神(よろずのかみ)の聲(おとない)は、狭蠅(さばえ)なす皆涌(みなわき) 萬(よろず)の妖(わざわい)悉(ことごと)く發(おこり)き。
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天岩屋戸のくだり 序文
太陽神 天照大御神が天の岩屋戸に お籠りになったことで、天上界の高天原だけでなく、地上界である葦原中国も暗闇になり、騒がしく様々な災いが起こるようになりました。さて、こてからどうなりますでしょうか。
本日はここまでと致します。
如何に春の訪れを知るのだろう。
2020年02月16日

立春を過ぎ人間が大きな気温差を感じなくても、平らな土中からあっという間に福寿草の花が咲き沈丁花の蕾が膨らんでアジサイの新芽も大きくなってきました。枯れ木にしか見えない木々も小さな芽が日ごとに膨らむ今日この頃、猫の額ほどの庭にも春の訪れを見ます。メダカもカメも急に食欲が増してきます。
誰が何を教えなくても、各々の動物、植物は自らの天分に応じた備えをし時が来たらそれを成し遂げていきます。この人知を超えた営みを支えているものが目に見えないもの即ち神の御業というものだと思います。
そしてそこから段々遠ざかっているのが人間ではないでしょうか。
百日紅(さるすべり)の樹(鉢植えですが)に、アゲハの越冬サナギを見つけました。家には、小さい柑橘の苗木が何本かあります。これは農家にとっては害虫のアゲハのために植えてあるのです。昔住んでいた借家のプランターのパセリに沢山キアゲハが卵をつけました、。私は子供に羽化を見せてやろうとして、虫かごに割りばしを入れてサナギから孵したのですが、何が悪かったのか羽が伸びきらず飛べない蝶になってしまいました。
「巣から落ちた鳥は拾ってはいけません」でも書きましたが、天の領域に手を出すような大それたことをしたような気がして、それ以来 柑橘の樹を植えて、蝶育ては自然にお任せしています。蝶に関する知識がなかったので秋に生まれた幼虫がどうなるのか。はじめは心配したのですが、だれに教わるでもなくサナギの姿になって越冬するのです。春、充分暖かくなってから羽化していきます。
神の御業にお任せさえすれば、このような小さな羽虫でさえ力強く生きていくのです。
日本神話(18)宇気比/誓約/受霊(うけひ)
2020年02月15日
宗像三女神は思い入れのある方も多いのではないでしょうか、玄界灘に一直線に鎮まる お宮に祀られる神は、現代人の目から見ても至極神秘的な地で神意というものを強く感じます。私は古事記派ですが日本書紀でも三柱の神は特別に尊いご存在であるとされています。
「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群として平成29(2017)年に世界文化遺産に登録されましたが、信仰のある人にとっては、そんなことはどうでもよいでしょう。この海路がどれほど大事なものであったか、それを鎮め守ることが日本にとってどれほど大きな意味を持つものであったかは現在でもどんな戒律があり祭祀が行われているかをみれば明らかです。
神宿る島はキャッチフレーズではなくて真実なのです。日本人はもっと神の御前で謙虚でなければなりません。私は特に沖ノ島などは旅や観光気分で訪れることには反対だったので一般人の上陸や女人禁制が貫かれていることに安堵しています。誰が何と言おうと信仰上曲げられないことがあって良いのです。
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故爾(かれここ)に各(おのもおのも)天安河(あまのやすかわ)を中に置(お)きて、宇気布(うけぶ)時に、天照大御神、先ず建速須佐之男命の佩(みはか)かせる十拳剣(とつかのつるぎ)を乞(こ)い渡して、三段(みきだ)に打ち折りて、奴那登母母由良(ぬなとももゆら)に天之眞名井(あまのまない)に振り滌ぎて、佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名(みな)は、多紀理毘賣命(たきりびめのみこと)。亦(また)の御名(みな)は、奥津島比賣命(おきつしまひめのみこと)と謂(もう)す。
次ぎに市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)。亦の御名は狭依毘賣命(さよりびめのみこと)と謂す。次ぎに多岐都比賣命(たぎつひめのみこと)。三柱。
速須佐之男命、天照大御神の左の御(み)美豆良(みづら)に纏(ま)かせる八尺勾璁(やさかのまがたま)の五百津(いほつ)の美須麻流珠(みすまるのたま)を乞(こ)ひ渡して、奴那登母母由良(ぬなとももゆら)に天之眞名井(あまのまない)に振り滌ぎて、佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名(みな)は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかあかつかつはやひあめのおしほほみのみこと)。また右の御(み)美豆良(みづら)に纏(ま)かせる珠を乞い渡して、佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名(みな)は天之菩卑能命(あめのほひのみこと)。亦(また)御鬘(みかづら)に纏(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)成りませる神の御名(みな)は天津日子根命(あまつひこねのみこと)。亦(また)左の御手(みて)に纏(ま)かせる珠(たま)を乞(こ)ひ度(わた)して佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名(みな)は活津日子根命(いくつひこねのみこと)。亦(また)右の御手に纏かせる珠を乞ひ渡して佐賀美邇迦美(さがみにかみ)て吹(ふ)き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧(さぎり)に成りませる神の御名(みな)は熊野久須毘命(くまぬくすびのみこと)。井(ならびに)に五柱。是(ここ)に天照大御神、速須佐之男命に告(の)りたたまはく「是(こ)の後(のち)に生(あ)ませる五柱(いつはしら)の男子(ひこみこ)は、物實(ものざね)汝(あ)が物(もの)に因(より)て成(な)りませり。故自(かれおのずか)ら吾(あ)が子也(みこなり)。先(さき)に生(あ)れませる三柱(みはしら)の女子(ひめみこ)は、物實(ものざね)汝(みまし)が物(もの)に因(よ)りて成(な)りませり。故乃(かれすなわち)汝(みまし)の子也(みこなり)」如此詔(かくの)り別(わ)けたまひき。
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下表はクリックしてください。

さてこの受霊(うけひ)をもって自(みずから)の心の清明(あか)きことを証明したはずの須佐之男命でしたが「果実をみてその樹の真価を知れ」ということを勘違いしてしまいます。確かに自らの清明き心によって、尊い三柱の女神が誕生されたのですが、それが自分だけのお働きだと思ってしまったのです。
思い起こせば私たちの周りにも必ずこういう人間がいますね。自分一人で成し遂げたと錯覚している人。神様ではなく人間の話ですけれど、自分一人でできることなんて何一つありません。そもそも生まれてきたのが自分一人の力ではないし、心臓や胃や腸を動かしているのは自分だと思ってますか。だったら部分的に止めたり動かしたりできますか。
須佐之男命は自分だけの力(清明き心)が三女神を誕生させたと思い込んで、高天原でまた事件を起こしてしまうのであります。
本日はここまでと致します。
建国記念の日 (紀元節に令和の日本を考える)
2020年02月11日
昨年の同日記事も合わせてご覧んください。
- b) 人生/社会観(若人へ)の記事一覧も見てみれば昨年8月から新しい記事がなかったです。しかしまあ神話のカテゴリも若者に読んでもらいたいと思って書いていますので想いは同じです。
日付が2020年02月11日と自動的に西暦で記載されてしまいますが、本当は『皇紀2680年』です。これは紀元前660年に初代 神武天皇が橿原の宮で即位されたことから、この日が 『紀元節』 とされているのです。
ただし当然、暦(こよみ)がどれだけ庶民に密着していたかというと、江戸時代以前と明治以降で違うわけです。明治までは長く暦は二十四節気や雑節(ざっせつ)で示され今でもそのほうが日本の季節感に合致するという意見もあります。年号は文久・元治・慶応などの元号が一般的でした。
私見ですが皇紀が使われたのは明治政府が定めた日本の正史(真実と事実の違いは別項に記載がありますのでごらん下さい)に基づいたもので、西洋歴に対する紀元歴ともいうべきものだと思います。「日本人は誇りを持って外国とお付き合いしましょう」という当時の人々の想いの発露、「明治人至高説」を持論としている私としては当時の人が喜んで「皇紀」を使っていた時代が羨ましいです。同様に今の誕生日記念日好き日本人は 四大節(元旦と誕生日)くらい全国民でお祝いすることが何故できないのか。考えていただきたいとも思います
大東亜戦に於いて昭和20年8月(日本軍の有条件降伏武装解除(休戦))を経、サンフランシスコ講和条約(昭和27年4月戦勝状態の終結)まで7年間日本は戦勝連合国に占領されました。
実質的に完全独立国ではないアメリカ中心の連合国占領下の日本だったわけです。その間、色々なことが決められました。皆さん考えてください。占領軍中心だったアメリカ人は当時 以下ような考えを持っていました。 こんな人たちが日本のための政策をしてくれると思いますか。もう一度書きます読んだ後考えてください。
今の私たちにとって差別の元になってはいけませんが敢えて書きますので事実は各人で調べて下さい。
=== 戦争開始時の第32第米大統領=フランクリン ルーズベルト(悪いルーズベルト(良いルーズベルトは第25第セオドアルーズベルト))は ===
「日本人は頭蓋骨の発達が白人より 2000年 遅れているから邪悪なのだ」と語り、本当にそれを信じていた。
=== 原爆を投下の第33第米大統領 ハリー トルーマンは ===
「叔父のウィルは、神は砂で白人を作り、泥で黒人を作り、残りを投げ捨てそれがChineseになったと言っていた。叔父はChinese人とJapが嫌いだった。私も嫌いだ」
原爆投下後「多くのキリスト教徒が動揺している。それが無差別破壊だからだ」と指摘され「獣を相手にするとき、あなたはそれを獣として扱わなければならない。大変残念だが、それでも真実だ」「後悔していない」「全く心が痛まない」と語り、道義上の問題があるので決定は難しかったのではと問われると、「いやいや。こんな調子で決めたよ」と、指を鳴らしボーイを呼ぶまねをしたそうです。有色人種は犬猫以下と本気て思っている人もいた、為政者の中にもいた、そんな時代だったのです。
(だからドイツには原爆を使わず 日本に2発落としたと言われている)
=== 日本を占領した連合国軍最高司令官はダグラス マッカーサー === もまた日本人が大嫌いだった。
フィリピンの前線で我が本間雅晴中将率いる第14軍と対峙、敗走し、10万余りの将兵を捨ててさっさと逃亡。有名な「I shall return」残されたアメリカ兵は、この言葉を「尻尾を巻いて逃げる」という意味に皮肉ったという。なぜフィリピンがアメリカ側だったか、その歴史も調べてみると良いです。やっぱり白人の理屈です。
マッカーサーは日本占領軍総司令官でした。こんなことも言ってます。
「もし白人が、科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々同様十分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにもかかわらず、まだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度では我々が45歳であるのに対し、日本人は12歳くらいの子供だ。日本人には基本的な思想を植えつけられる。事実、日本人は生まれたばかりのようなもので、新しい考え方に順応性を示し、我々の好きなように教育ができる」
確かに、日本人の頭は劣っていたようです。この言葉通り占領がうまくいったのは日本だけです。ベトナムでは戦争に負け、中東もいまだに洗脳できず却って アメリカは反感を買っています。なぜ日本だけ占領(洗脳)がうまくいったのでしょうか。
WW2敗戦同盟国 日本・ドイツ・イタリアの憲法改正数を比べてごらんなさい、それぞれ(0・59・20)日本の異常さがわかりますね。白人が45歳だとすると日本人は12歳どころじゃなくて、4~5歳かそれ以下、自分のことを自分で考えられない人種になり下がったということです。本当に脳の機能が異常をきたしているのかも。生き物として一番初めの本能、自分の命を守るという事さえ自分で考えられないのですから。

さて今回は、写真の記事はわずか、私も近年残りの人生が予想より短そうなのでペースを上げて本を読んでいます。
この頃は、昭和の陸軍飛行隊系(熊谷航空自衛隊の地元なもので)そしてやはり日本人の心の劣化は
明治>大正戦前>昭和戦前>戦後占領期
>>>平成>令和
であることを残念ながら確信しています。
日本という飛行機は今から機首を上げて間に合うか?
軍令部総長 永野 修身や航空艦隊司令長官 大西瀧治郎がいふやうに一度滅びて数百年後に復活できるか、
気になるのは、GHQによって根絶やしにされた大和魂が何処かに息をひそめ、その日を待ってるのかという事。
日本オオカミや日本カワウソがどこかにいると信じている人みたいになっている。形も血筋も日本人だって大和の心がない人は日本人ではなく、逆に血統はどうであれ大和心を持つ者が日本人なのです。(持論)
血統が必要なのは、皇統のみである。(確信)
男系を辿れば必ず神武天皇に着く、天孫に到る、大御神に到るという系統のみは日本に必要なのです。(確信)
ですから、女性天皇は◎ 女系からの天皇は××××× なのです。(ここを理解できない人多し女系と女性違いを述べられる人どれだけいますか?理解せずの発言は危険です)是こそが、日本占領下で連合国が植え付けた日本弱体崩壊化(日本が嫌いな人が方針を決めたのだから当たり前なのです)の萌芽であることを知らねばなりません。
芽が小さいうちに摘まないと・・・。
建国記念の日に 国を憂う悲しさを和歌にしたいところですが心得がありません。
『いにしへの大和のつむぎ淀みなく
無窮(むきゅうに)に糾(あざな)へ機翼にのりて』
これでは突っ込みどころ満載でしょうか。良し悪しもわかりませんが詠んでみました。
プロフィール
代表取締役社長:本間 剛1964年12月生まれ
東京電子専門学校
メディカルエレクトロニクス科卒
趣味 : 読書/仕事
座右の銘 : 吾以外皆吾師カテゴリー
- a) 会社や仕事について想う (17)
- b) 人生/社会観(若人へ) (59)
- c) 健康観(カウントダウン) (7)
- d) 体験/プライベート (28)
- e)日本神話 古事記 やさしい解説 (28)
- f)日清日露大東亜 (9)
- 社長在宅日記 (22)
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