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紀元節 皇紀2684年 日本国のお誕生日 <依存性からの脱却(自主独立)>
2024年02月11日
晴れやかな本日は『紀元節』。2年前、北京冬季オリンピックの年にも同じ自タイトルの記事を書きました。
祝日法では『建国記念の日』は建国をしのび、国を愛する心を養う」(内閣府HP)となっています。昭和41年の祝日法改正により設けられた「国民の祝日」として復活した元(もと)祭日です。
祭日と祝日が曖昧になっていますが現在日本に祭日はありません。祭りは国民と切り離されたからです。祭りとは何かとうと宮中(皇室)祭祀ですから神道で行われるものです。国民も祭日として祝うことになっていたのです。これら神道と関連していた祭日は廃止され別の名前になっています。もっとも祝祭日の多くは明治に決められたものですからもう廃止になってからのほうが長くなりました。明治の人は日本の歴史上最強だと思います。堂々としています。ある人は当時の日本は民主主義ではないと言います。しかし何も決められず、曖昧な方針しか建てられない現在の民主主義をみると、これはこれで衆愚政治の過程のように思います。
連合国軍最高司令官(SCAP)総司令部(GHQ)は「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」という所謂、神道指令を出します。昭和20年、敗戦の年です。
国家と神道を切り離したのですが何故でしょうか。多くの人は天皇による専制的な戦前の体制が戦争を起こしたと教えられてそれを信じています。戦後の教育方針もGHQによってそう決められ日本人全体がそう思わされてきたのです。

もう戦後80年です。そろそろ日本人も目を覚ましたほうが良いでしょう。(遅いかもしれませんが)明治の人が描いた国家は間違っていたと占領軍から教えられました。それさえ忘れている日本人が多いですが、昭和20年9月2日から昭和27年4月28日までの7年間まさに戦後直後の日本は外国の勢力下におかれた自主権のない国だったのです。昭和23年の祝日法によって四大節は廃止になりました。祭日は祝日として名前も変わり本来の意味も解りません。日本国憲法は昭和21年の発布です。これらが日本国の日本国民の幸福のために外国が与えてくれたものだと思いますか、日本人が外国の影響を受けずに自分で決めたことだと思いますか。
普通に考えれば反対です。戦争直後と考えれば日本の力を削ぐ政策だったということは想像できるでしょう。その柱が国家神道の廃止。天皇と神道と政治と国民をバラバラにすることが目的だったと私は思います。戦後80年、戦前全否定を省みてもう一つの側面も知ってもよいのではないでしょうか。「分割して統治せよ」は古代ローマ帝国による支配地域の統治法のことですが、今でも占領政策の鉄則です。
小さな日本ミツバチでも纏めて行動するとスズメバチにも立ち向かう。日本とアメリカのようでしょう?
日本人は皇室の制度が残ったことで「国体護持」という最低の目的は守ったと敗戦時に思ったのでしょう。しかし天皇を象徴としてしまい最も大切な祭祀を表に出さず。天皇と国民との結びつきの手段である神道を国民から遠ざけ事実上分離しました。この分割によって日本は「自主独立できない国」になったのです。三島由紀夫はそんな国の方針により国民も劣化することを憂いていましたがその通りになりました。日本ミツバチの巣から女王バチがアクシデントでいなくなったら群が滅びるそうです。
<依存性からの脱却(自主独立)>は日本人伝えたい事です。いつも誰かが守ってくれて自分では何もしないかのような憲法の下で育った日本。現実には有事がおこっても外国は守ってくれないことがわかりました。自国で戦って防ぐしかないのです。次元は違いますが個人のレベルでも、これらの歴史的経緯も踏まえて自己判断するべき時が来ています。近いうちには無理のようですが将来もう一度日本の復興を期待したいと思います。
「新嘗祭」今は勤労感謝の日といいます。
2022年11月23日

斎庭稲穂(ゆにはのいなほ)の神勅(しんちょく)
『吾が高天原に所御(きこしめす)
斎庭(ゆには)の穂を以て(もって)
亦(また)吾が児に御(まか)せまつるべし』
《私の治める高天原に作る神聖なる稲穂をわたくしの子孫に授けましょう》
天孫(天照大御神の孫神)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を葦原中国(なかつくに)降ろすとき授かった神勅の一つ。連綿と続く日本民族と稲作の関係を示す。
稲田は日本の象徴的な風景です。平地が少ない山野にも稲作は営まれてきました。営みとは連綿とした人生の繋がりです。私たち日本人は稲作を通して神に応えてきたのです。

神道排斥の戦後においては「勤労感謝の日」とされている今日、新暦の11月23日の元は「新嘗祭」であり、皇室はもとより日本全国の神社で「初穂を神にささげる」一年で一番大切な日といっても過言ではない神事が行われる時期です。工業交易が未達の時代。米の生育は死活問題です。気候や災害によって不作になれば何千何万という人が飢え死んでいきます。無事に米が収穫できるということは現代の価値では測れない意味のあるものでした。眞に神事なのです。

日本国内でなぜおいしいお米がとれるのでしょうか。日本の国土の中でも地方によって気候風土が異なります。その中でその土地にふさわしい稲穂が育ち米の収穫ができるのは神の御業と思われます。天照大神の「斎庭稲穂の神勅」をはじめに書きましたが、日本全国で神に渡された稲穂を守り育て感謝するということの繰り返しの中で品種改良が進んだのです。これを神意と呼ばずに何なのだろうと私は思います。
その年の初穂というのは、その土地で一番強く実った稲穂で、それを献上して翌年の種籾として苗を作った。毎年それを繰り返せば、その土地で最も強い種だけ残っていきますね。誰が考えたわけでもなく神に感謝する行為は自然に品種改良を進めるものだったのです。自然と神に感謝する行いから生まれることが大事だと思います。
今年も立派に穂が実りました。その感謝の気持ちを表して稲穂を神に献上します。我々は「勤労感謝」という言葉に置き換えられてはいますが勤労もまた神から与えられた役割だと考えた時。自分の意思とは異なる仕事に不本意ながら就いているとしても、神から与えられたものとしてその場で努力すれば、何かが開けてくるのです。同じようなことを、かの稲盛和夫氏も言っているのですから眞實です。
群衆事故に想う
2022年10月30日

「明石花火大会歩道橋事故」は2001年7月21日に市民まつりの花火大会の帰路、歩道橋で6700人の群衆によって起こった圧死事故です。
11人の死者の多くが子供でした怖く苦しかったことでしょう。昨日ソウルで150人が群集の中で圧死する事故がありました。
物質の豊かさと人間の心の豊かさは反比例するのでしょうか。時代が進んで豊かになったのになぜこのような事故が起きてしまうのでしょう。
神話を知らずに育つ日本人を心配して古事記の解説を書くと同時に近代の歴史も書いています。私たちは過去の歴史の上に存在して伝承する責任がある存在であり。虫のように湧いて生殖して死ぬわけにはいかないのです。
「しき嶋のやまとごころを人とはば朝日ににほふ山ざくら花」と本居宣長先生は詠みました。日本人は山桜の美しさが分かる心を持っているという意味です。日本に生まれたから日本人なのではなく。民族の歴史や生き方を知らなければ日本人にはなれないのです。
新渡戸稲造は120年前に武士道を書きました。ベルギーの法学者ド・ラブレー氏の私邸で日本の学校では宗教の授業なくしてどうやって道徳を教えるのだという質問の答えです。新渡戸稲造の妻のアメリカ人、旧名マリー(萬里子)へのメッセージでもあり英語で書いたのです。当の日本人である我々が今、翻訳して読んでいます。おかしな話です。
私は大東亜戦後の日本の教育が戦前の日本の行いを否定することから発していることに強烈な違和感を持っています。戦以前にあった多くの正しい道も否定して伝承されなかったことで日本の美徳は忘れらられ「足るを知る」心を失い誰もが「もっともっと欲しい」心を持ち、自由という名の分断の種を植え付けられました。

戦がなくてもすでに明治期に日本に来ていた外国人は欧米のもたらした文化によって日本の美徳である文化が滅びることを予言していました。以前にもあげた渡辺京二著「逝きし世の面影」を読んでください。明治人最強と私が言う日本人の美徳が残っていた明治が外国人の目線で語られています。新渡戸稲造が外国人に武士道を説いたように現代日本人に伝えられていないルーツを教えてくれます。
争いごとを好まない秩序ある子供を大切にした明治の人たちには「明石花火大会歩道橋圧死事故」などということが日本で起こったことが信じられないでしょう。なぜそうなったのか。明治文化が滅んだからです。滅びると言っても国がなくなるのではなく、多くの美徳は西洋を知ることで価値観が変わって日本らしさがなくなるということです。彼ら明治の外国人の予想した通りの展開になりました。
「逝きし世の面影」から外国人が見た日本を転載します。第4章 親和と礼節のほんの一部です。たくさんの項目のうちの一部の中の更に一文。全体は購入して読むことをお勧めします。
明治20年初頭、伊勢参りの群衆を山田で見たパーマー氏(日本在住8年)
「この人たちは実に日本の大きな魅力である・・・幸福で礼儀正しく穏やかであり、温和しい声でいつもニコニコしながらお喋りをし、ちょっとしたことからも健やかな喜びを吸収する恵まれた素質をもち何時間ともなくトボトボ歩いてもあちらこちら見物しても、決してへばらない羨ましい身体と脚を持っているなど点で、日本の群衆にひけを取らないものがあると公言できる国など何処にもあるまい」「群衆の中にいる日本の警官は何もすることなどない」と彼には思われた。「日本の庶民はなんと楽天的で心優しいのだろうか。なんと満足気に、身ぎれいにこの人たちは見えることだろう」
以降の写真はすべて「ニューヨーク公共図書館」Digital Collections 公開画像より転載



エドワード・シルヴェスター・モース
隅田川の川開きを見に行くと行きかう船で大混雑しているにもかかわらず「荒々しい言葉や叱責は一向聞こえず」ただ耳にするのは「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」の声だけだった。彼は書く。「かくのごとき優雅と温厚の教訓、しかも船頭たちから、なぜ日本人が我々を南蛮夷狄(なんばんいてき)と呼び来たったかが、だんだんわかってくる」「下流に属する労働者たちの正直、節倹、精錬その他、我が国において「キリスト教徒的」と呼ばれるべき道徳のすべてに関しては、一冊の本に書くこともできる」と彼は思った、また彼は相撲の見物人が「完全に静かで秩序的」であり「演技が終わって見物人が続々と出てきたのを見ると押し合いへし合いするものもなければ、高声でしゃべる者もなく、またウイスキーを売る店に押し寄せる者もいない」とこれまた米国の場合と比べながら記述する「日本人はあまり酒を飲まぬ民族」であり「今日までの所はでは千鳥足の酔漢は一人も見ていない」彼は日本で暮らしていた間にたった一度しか往来で喧嘩を見なかったという。しかも彼にはその喧嘩のやり方がとても珍しいものに見えた。二人はただ髪の引っ張り合いをするだけだった。見物人はモースひとり。道ゆく者は嫌悪と恐怖の情を示して避けてゆく。例によって彼はアメリカの場合と比較する。これがアメリカなら「誰でも知っている通り、老幼が集まって環をなし、興奮した興味を持って格闘を見つめ、ぶんなぐれば感心し、喧嘩が終わるか巡査が干渉するかすれば、残念そうに四散する」というふうに。モースは日本に数か月以上いた外国人はおどろきと残念さをもって「自分の国で人道の名において道徳的教育の重荷になっている善徳や品性を生まれながらにして持っている」ここに気付くと述べ、それが「恵まれた階級の人々ばかりでなく、最も貧しい人々も持っている特質である」ことを強調する。
この本には、これらと異なる飲酒に関する習慣や事実もあることももちろん書かれてはいます。この後に続く記述には江戸時代には飲酒は習慣で武士の飲酒がもとでの悪徳も多くありましたが明治的禁欲生活に変化した数十年で飲酒に関する習慣が変わったようです。「火事と喧嘩は江戸の華」も喧嘩の中身を知ると相手を完膚なきまでにやっつけるようなものではなくコミュニケーションの一つのようにも思えます。とにかく明治日本人最強説の私の論拠の一つです。
昭和の初期の記載になると東京に住んでいたキャサリンサンソムが電車に乗り込む際に我先に他人を押しのけて乗り込もうとする年配の女性のことを書います。
私は現代の初売りのデパートでの初売りの時の姿を想像しながら、やっぱり明治だなあと改めて思うのです。



引用を続けます、明治7年に来日したディアス・コバルビア
「日本人に関して一番興味深いことは、彼らが慎み深く、本質的に従順で秩序正しい民族であるということである。・・・・ その他多くの機会を通して横浜、神奈川といった人口6万から7万の都市で国民が喧嘩も酔っぱらいも何の混乱もなく、照明と花火と動物に変装した人々の怪奇な無言劇などを楽しむのを目撃する機会に恵まれた。どの祭り場でも通りで酔っ払いに会ったことがなかった」
明治12年グラント将軍に随行したJ・R・ヤング 上野での歓迎会当日の群衆について
「人だかりの中で目に付くものといえば、一般大衆の快活さとはしゃぎぶり、にこにこしている顔、娯楽好きな眼である。さらに気づいた点は、よく行き届いた完璧なまでの秩序と親切とやさしい感情である。・・・・群衆の快活さとがまん強さには終わりがないように思えた」 パーマーも明治22年の憲法発布祝賀行事の当日において同じような感想を抱いた。「群衆の振る舞いも日本独特で、見ていてとても楽しい。こんな時に喧嘩はつきもので必ず起こるのだが、東京の町々を今夜歩きまわっている夥しい群衆の実に我慢強く丁重で機嫌がよいことは日本以外には見られないと思われる」これらの記述を明治政府の強力な統制を示す資料として受け取りたい向きもあろう。しかし祭りの際の群衆の秩序については、ルドルフ・リンダウ(ドイツ人スイス通商調査派遣隊)の古い証言がある彼は文久元年に「長崎の守護神祭」を見物したが「静かで争いのない群衆であった」と書いている。
街には異常な活気がみなぎっていたが、同時に「完全なる秩序」が保たれていた。祭りの秩序は警察によって保たれているのではなかった。イザベラバードが明治11年に秋田土崎港の祭りを見て書いている「警察から聞いたところでは、港には2万2千人のよそものが来ているとのことだ、しかし、祭りを楽しんでいる3万2千人に対して、25人の警官の一隊で十分なのだそうだ。私は午後3時に立ち去るまで、酒に酔っているものは一人も見なかったし、乱暴な振る舞いや無礼な振る舞いを一例も見なかった。群衆に乱暴に押されることもまったくなかった。というのは人々がひどく込み合っているところでさえ、人々は自分から輪を作って、私に息のつける空間を残してくれたのである」
これも文中にあるように外国人観察者は日本人の庶民から見れば一種の貴人としての扱いであったとも取れます。しかしバードの言うように日本人の集団のみをみてもその中での日本人が「静かでおとなしく、彼ら自身の間でも押し合いもへし合いもすることはなかった」というのもまた事実です。



明治7年当時 東京外国語学校で教師をしていた革命家レフ・イリイッチ・メーチニコフ
「江戸でも一二を争う劇場は大勢の庶民ですし詰めで、女は胸をはだけて赤児に乳を飲ませ、男たちは下帯一本の裸というまことに「デモクラティック」な有様であるのに「そこには何の混乱も押し合いもなかった」彼はいう「この国ではどんなに貧しく疲れ切った人足でも、礼儀作法の決まりから外れることがけっしてない。・・・私は江戸の最も人口の密集した庶民的街区に二年間住んでいたにもかかわらず、口論しあっている日本人の姿をついぞ見かけたことがなかった。ましてや喧嘩などこの地でほとんど見かけぬ現象である。なんと日本語には罵りことばさえないのである。馬鹿と畜生ということばが、日本人相手に浴びせかける侮辱の極限なのだ」
ジョルジュ・イレール・ブスケ
「大川を横切っているくつかの木の橋の上から見下ろすと、船が上げ潮にのって帆を広げてゆっくり進んで来るのが見える。船頭すなわち水夫の組合は、労働者連中のなかで最も感心できないものの一つだそうだ。しかし今は粗野な様子も示さずに船を操り声を掛け合っている。罵倒することは下級階級でも極めてまれである。・・・本来の意味での喧嘩、口論、乱暴は決してない。我が国の意思が思想にしている群衆が常に見せているあの激しさや気忙しさを思わせるものは何もない」大川の花火の時でさえ、引け時の混雑を抜け出そうとする船々は「強くぶつかりあうことも粗野な言葉を交わすこともない」


引用は以上ですが、この本の中には「こどもの楽園」という章もあり、日本の子供が世界一幸せそうに見える。大人に大切にされてのびのび生きている様子が描かれています。「明石花火大会歩道橋圧死事故」での犠牲の大半は子供でした。いつから日本はこどもの楽園ではなくなってしまったのでしょうか。無邪気な子供も減ったのですが、何より無邪気で且つ子供を大切にする大人が減ったと思います。
日本人の特徴は邪気がないこと。これを無邪気と言いますが大人も子供も邪気が無かったことが外国人から見た日本人の姿として書かれています。逆説的に言えば現在人には邪気がありすぎる。無邪気ではいられない世の中になってしまったのでしょう。無邪気なおとぎの国の日本は滅んだのですが、物質文明に対抗する価値観を持つ日本の萌芽を個人的に期待します。「温故知新」過去を知って新たに踏み出す時期にきているのではないでしょうか日本は日本の価値観のままで良いのです。他の国の真似をすることはないのです。
子供や女性を大切にする。本当の平等とは、差別なくして区別ありの事。日本の子供を大切にする文化がなぜ廃れたのか。日本人として反省しなければならないと思います。先の戦で先人が守りたかったものは国家ということになっていますが、不可分一体の子や妻や親、地域が先にあったと思います。それが日本の美徳ではないでしょうか。
私の「人生の羅針盤」
2022年10月22日

若い時は自分の立ち位置や向かうべき道が分からなくなることがありますね。私はそんなとき、先人の生き方を参考にします。今回は私の「人生の羅針盤」のお話です。
科学の発達は人間に幸せをもたらすのだろうか。人間から人間らしさを失わせる、或いは人間であることの意味さえ無くしてしまうのではないか。人生が無機的なものになってしまわないか心配です。
物理学は今後、暫く「量子力学」が研究の中心になるでしょう。
今年のノーベル物理学賞の「量子もつれ」は光の速度を超えるものは存在しないというアインシュタインの相対性理論に合致しない現象です。
この量子の「粒であり」「波(波動)」である性質は大変不思議で。2方向スピンの中間状態をもつことから0-1のトランジスタコンピュータとは別の次元の高速計算をもたらすこと。量子の「2重スリット実験」から「観測しているときと非観測状態で異なる結果を生じる」こと。(量子に意思があるかのよう) 月と地上ほど離れたところでも同時にある現象が起こる「テレポーテーション」 。大栗博司博士の説によると、この3次元の世界で起こることは全て、その外側の2次元の面に素粒子の原理で書かれているという理論(予言性)などは何れも、かつては非科学の領域であったものの解明であり、私のような非科学的な人間にとって、神秘性が失われていくような。非科学の皮が科学によってめくられていくよう少し寂しい複雑な心境になります。
やがて私の記事の幾つかも科学的な常識になるのかもしれません。その前に古典的日本人として今は神秘性をもって読んでいただけるような記事を残しておこうと思います。
潜在意識を用いた引き寄せ系などの著書や、お話は150年前のニューソートの焼き直しであることは、何度か書いてきましたが、同時に、そのニューソート(光明思想)は私の「人生の羅針盤」でもあります。

稲盛和夫氏 座右の銘は西郷南洲の敬天愛人
奇しくも先日、京セラ(旧京都セラミック)の稲盛和雄名誉会長が亡くなりました。稲盛先生も私からみるとニューソートを実践された人です。知っていることと実践したことは天と地ほど違います。知っているだけで実践できないのが大半でしょう。でも目指すことはできます。先人の生き方に学びせめて少しでも近づきたいものです。
私は常々明治の日本人は最強と申します。その象徴が「谷口雅春先生」と「中村天風先生」の二人です。残された著書や言葉もまた私の「人生の羅針盤」です。予め申してしておきますが、言うまでもなく「谷口雅春先生」は
生長の家という宗教法人(昭和24年法人化)の教祖であり「中村天風先生」の天風会は昭和37年に財団法人化されました。私は、お2人の説は「人生哲学」という意味で尊んでいますが興された団体に関しては無縁ですし、この「始祖なき団体」は、私の敬する個人とは全くの『別物』であり関わってはいけないものという考えです。誤解がなきようお願いします。
お二人の略歴を失礼ながら記します。

「谷口雅春先生」
1893年(明治26年)貧しく生まれ4歳で養子に出されたことで実の6人兄弟の中でただ一人大学に進むことができた。早稲田大学文学部英文科に進学したが女性問題がもとで中退。紡績会社に就職するもやはり女性問題で悩み求道のみちに進む。大本教に入信、機関誌の編集に携わるが大本教が唱えた最後の審判の日に何も起こらず。脱退。数万冊の本を読み真理を求め続ける。住吉神社に毎日参拝、瞑想の日々の中で悟る。正しい宗教の真理は一つ「万教帰一」というもの。昭和5年「生長の家」誌を自費出版。読者の中から病気が治ったなどの人が多数出て宗教法人「生長の家」を設立。「生命の実相」は発行部数1,900万、その他多数著、文字での布教。1985年(昭和60年帰霊(91歳)

「中村天風先生」
1876年(明治9年)大蔵省要職の父の下に生まれる。印刷技師の英国人夫婦により日常的に英語を身につける。16歳の時、暴力事件で退学後、国家主義者の大人物、頭山満先生に預けられ陸軍の軍事探偵として満州に赴任、偵察稼働中にシナ語を習得。日露戦争で軍事探偵として活躍生還後、肺結核に罹患。33歳で救いを求めアメリカに密航、アメリカ、フランス、ドイツで哲学に失望(答えを得られない)35歳ドイツからの帰途偶然ヨガの聖人カリアッパと出会いヒマラヤへ2年の修行を経て悟る。(日本人初のヨガ直伝者となる)帰国後、錚々たる人々(皇室含)に対して講義を行う。1962年(昭和37年)「財団法人天風会」となり1968年(昭和43年)帰霊(92歳)
このお二人の接点についての書物は見当たりません。ただし、私は数々の書物に触れましたがお二人のお説は大変似ています。谷口雅春先生はニューソートの訳著もあり、自らニューソートを光明思想と名付け提唱されていますので真にニューソートの人です。そのお説と共通点の多い中村天風先生もまたニューソートの人だと思います。
そしてまた、別々に松下幸之助氏と稲盛和雄氏には各先生と接点があります。松下幸之助氏は松下電器産業の社員に生長の家の講師を読んで公演を行い共鳴したこと。稲盛和雄氏も少年時に肺浸潤にかかった時、谷口雅春先生の「生命の実相」を読んで衝撃を受け自分の考え方の基盤になったと語っています。松下氏、稲盛氏共に中村天風先生に深く共鳴されたということです。ということは少なくてもこの方たちは昔ニューソートと呼ばれた光明思想家であり、それを実践した方々です。それぞれに多くの門下と立派な法人を立ち上げた各界の神様です。
そのお説を私の文章力で、この少ない文字数で語るのは畏れ多い事ですが皆さんに知っていただきたいという意味でホンのさわりを書きますが、何しろ昭和の初期の文章からのものですから理解できなくて当然です。むしろを理解どころか逆に話を難しくするだけかもしれません。しかし敢えて書きます。
まず根本部分で当時はエーテルと言われていたものは「量子」なのではないかと思ったのが書こうと思ったきっかけで潜在意識が量子によって人類意識や宇宙意識(こちらは適当な言葉がない)と繋がっているのではないかと量子力学の話を聞けば聞くほど思えるようになりました。
中村天風先生は「肉体も心でさえも自分ではない」「本当の自分はエーテル(仮想物質)で肉体を取り巻いているが見えない。」と仰います。谷口雅春先生の場合「肉体はない」「心もない」「あるのは実相だけだ」となります。これを説明するのに恐らく20ページくらいはかかるでしょう。しかもそれ本当に私が理解しているかという問題があります。多くの人の場合、私も含みますが。知っているのと潜在意識(後で出てきます)に入っているのでは全く異なります。顕在意識(天風先生は実在意識と言っていますが)では知っていても潜在意識に入らないと役に立ちません。知っていても実行できない、しかも潜在意識で実行できなければ全く無意味なのです。
潜在意識とは人間の意識の中の95%を占める自分でコントロールできない意識。私たちが使えるのは氷山のように水上に出ている5%の顕在意識だけです。この顕在意識を使って潜在意識に刻み込んだ事柄は宇宙の意識とつながっていてやがてその自分の刻んだプログラム通りに自分の運命を導くのです。(このプロセスがやがて量子力学で説明されるでしょう)
自己啓発本の多くに書いてあります。そしてそのためにはイメージを写真のように描くのだと。イメージとは画像です。言葉や文字ではありません。画像のイメージは潜在意識に刻み込まれやすいのです。繰り返し繰り返し現在意識を使ってイメージを描く。それが習慣になってしまうとやがて潜在意識に刻まれて宇宙意識に通じその想ったことが実現するようにあらゆるステージが動き出す。自分の知らないところでも舞台が整っていくのです。引き寄せの法則や成功の法則など自己啓発本に書いてあることは間違ってはいません。しかしこれは希望実現という少しハードルの高い意識の使い方かもしれません。私たちの生活においては、そういったことよりも注意しなくてはいけないことを考えたほうが良いと思います。なぜなら、これを逆に使ってしまっている人が多いからです。自分の未来のイメージを常に負のほうに向けたらどうなるかということです。当然ですがその方向に運命は引きずられていきます。よりよくないものが実現する方向に潜在意識が完成してしまうのです。
私は中村天風先生の言葉を引用して若くして挫折してしまった人に申し上げたいことがあります。あなたの体も心も、あなたのものではなく地球上で生きていくために与えられた借りものです。その借りものを自分だと思ってしまったところに誤りがあります。借り物の調子が悪くても、借り物が弱音を吐いても、それはあなた自身ではありません。あなたの本質はあなたの借り物の周りにいて、その借りものを使って地上に何かの目的を果たすために生まれてきました。そこで挫けてはいけません。

借り物に本物が負けるはずがありません。あなたの本質はあなたの意思です。意志の力は借り物の心の力より強いのです。その意志の力を渙発し、あなたの心と身体を使いましょう。逆に使われてはいけないのです。これを知っても実践するのは難しいと思ったら。それはもう負けています。意志の力が一番強いのです。私が言っているのではないです。日本の聖人と呼べる人たちが同じことを言っています。とすればこれは眞實です。
もう一度書きます。書ききれないほどある宿命の科学、哲学のうち、両先生が使えといっているのが【言葉の力】と【信念(意思)】です。天風先生は意志の力だけは本当の自分から出る。だから強固な意志の力によって心を動かす。結果的に体も動く。宿命さえ動く。ということになると言っています。
絶対に必要な条件は「明るく」「建設的である」ことです。稲盛和雄氏が道を決める時の自分に問う条件は「動機は善なりや」「私心なかりしか」の2点 良心に悖(もと)る行動は潜在意識がそれを認めないので成功しません。逆に言いますと「動機が善で私心がなく明るく建設的な全人類のためになる仕事」を具体的に意志の力で強力に心に刻印(支配)し続ければ必ず実現するということです。

今の日本の社長っていうと皆さんには、どんな人が思い浮かびますか。恐らく手を泥や油で汚して研究開発を繰り返しモノになるかならないかわからないのに探求を続けて、失敗しながら成り上がる。なんていう人は浮かばないと思います。もう日本の大企業経営者で、そんな非効率で格好悪い人は出てこないでしょう。今、日本で成功している経営者は人や他の企業を使うのがうまい人ばかりです。
所謂(いわゆる)モノづくりを成功させた技術者で大起業家になるという効率の悪いことは現代以降考えられなくなるのではないでしょうか。松下幸之助氏も稲盛和夫氏も経営の神様といわれましたが会社を興した当時は一開発者です。シャープの早川徳次氏もホンダの本田宗一郎氏も皆モノづくりの人。時代がそうだったといえばそれまでです。ただ皆に共通しているのはモノと同時に人も作り「人間とは何か。人生とは何かを同時に考えていた」という点です。「何度失敗しても諦めなかった結果の成功」です。今の社長は労働環境の事は考えても、もっと本質的な哲学などというものを経営の軸に持っていないと思います。しかもモノづくりに直接関係ない「生きる意味とは何か」みたいなものは仕事に持ち込まないでしょう。ですから今後、ここに挙げたような経営者はもう出てこないと思います。それも時代なのでしょう。
科学によって人生の仕組みが解明されたら人類全体が幸せになるでしょうか。求めるものが効率よく手に入れば生きることに意味を持たせることができるのでしょうか。人生の羅針盤も無意味になってしまうのでしょうか。そんなことはないと信じます。
男系男子の皇統継承について
2022年10月16日
この度、青森県神庁様 http://www.aomori-jinjacho.or.jp/ を通じ「たったひとつのきまりごと」の転載許可をいただきましたので冊子のPDF版を基に記事を書きたいと思います。実物は青森県神社庁様のホームページから申し込めます。非常に安価ですのでまとめて入手されることをお勧めします。
今の御代の天皇陛下を今上(きんじょう)陛下、今上天皇とお呼びしますが、今上陛下は、お名前が徳仁(なるひと)称号は浩宮(ひろのみや)様です。拙著ブログで古事記神話の記事を書かせていただいていますが、この神話と直結の皇統というものは世界に類がありません。もちろん独裁者が後から神話を作ることもあるし、古事記だって最初はそうだったのではという疑念はあるでしょう。しかし少なくとも1300年以上は確実に繋がってきたという事実もある訳です。私にとっては、それ以前の約1000年も眞實ですが、西暦に660年足すと皇紀(初代 神武天皇の即位からの年号)ですから今年は皇紀2682年ですし皇紀2600年が海軍のゼロ戦の名前の由来だとかいろいろありますけど。もしこのことを知らなければわざと知らされなかったということに気づいてください。一部の人は天皇を神格化して戦争が起きたとの教育を信じていますが、そんな単純なものではないのでは?と疑い調べましょう。

堂々とアダムとイブの神話に異論をはさむ人は少ないですが、日本神話の欠史八代(けっしはちだい)とか天孫降臨の話になると当の日本人がムキになって否定するのは何故でしょうか。欠史八代も天孫降臨も信じない人がいても良いですが神話に大和の理念が書いてあることは認めていただきたいところです。イブが蛇に騙されて智慧の木の実を食べて楽園から追放される話と伊邪那岐命が黄泉国のものを食べて帰れなくなる話は似ています。アダムとイブの子孫は途切れていますが日本の場合は神話直系の男子男系の皇統が少なくとも1300年以上続いていて今上陛下で126代です。それを予備知識として先に進みましょう。
冊子では「たったひとつのきまりごと」は皇統の男系男子だとして、その理由が書いてあります。全てのページは載せませんが抜粋して私の捕捉も書かせていただきます。皇統の連続性については 政治の混乱は望ましくない(2022年08月13日)で書きましたのでそちらを見ていただくとして。冊子ではイギリスとChinaの例が出ています。

イギリスについては先日、エリザベス女王の逝去に伴い国葬が行われたので伝統と格式を強く感じた人が多いと思います。私のイギリスへの感想は何で世界中に英連邦王国などと呼ばれる国がいまだに存在するのか、独立しているとはいえ元の植民地。同じこと日本でしていたら大騒ぎですね。それは置いておいて英国の王朝というのは冊子にあるように連続していません。ウィンザー城でお別れした通りエリザベス女王はウィンザー朝の女王で王朝は交代しているのです。
Chinaは中国共産党創立100年です。建国100年は2049年です。
あの地をシナと呼ぶなら4000年の歴史ですが、こちらは易姓革命の歴史ですから王朝が変わると民族の構成まで変わってしまいます。気を付けていただきたいのですが私はどちらがよいとか優れるとか偉いとか考えているのではありません。それぞれの国柄を言っているのです。日本の国柄は他とは違う。優れているわけではないが特徴を持っている。万世一系という特徴です。男系男子による皇統継承という歴史です。

これまで先人たちがどうやって「たったひとつのきまりごと」を守ってきたかみてみましょう。冊子の並びを勝手に変えさせていただきましたが。その時代ごとに大変努力と苦労があったのがわかります。先人たちはそれを乗り越えて男系男子を守ってきたのです。自然に成ったのではありません。大変な苦労をして紡いできたのです。冊子には【皇統の危機】[古代編] [野望編] [近世編] [今] とありますが、[今] の危機を乗り越える答えが [古代編] に出てしまっていますね。今の危機、「男系男子がいないじゃないか、側室制度はないし」という声があります。古代編の危機 25代、武烈天皇がお隠れになったとき5代遡って福井県から継体天皇をお迎えしたとあります。皇室の存在を日本の強さと認めた占領軍(GHQ)は、その解体の為、11宮家51名(26名の皇位継承者を含む)を臣籍降下させて一般人にします。考えましょう。まだ2~3代前の話です。戻せばいいじゃないですか「一般人を天皇に?」と思ったあなたはGHQにやられています。一般人の天皇より男系断絶のほうが遥かに問題です。男系系統が途絶えたとき。王朝交代です。それはもう日本の国柄を失ったことになります。江戸時代も新井白石が創設した宮家によって男系男子が守られました。出来るのです。有識者委員会の話があまり公に出ません。話し合われた内容に都合の悪い事でもありましたか?ただ概ね男系男子継承意見にまとまったと漏れ伝わっていますので良かったです。


野望編の弓削道鏡や南北朝の足利は重要でなく。七生報国の楠木正成は愛国の象徴として後世に於いて水戸光圀公が墓碑建立するなど語り継がれる話です。写真は皇居外苑にある楠木正成像。朝廷を護ろうとした武人代表です。
皇統126代のうち女性天皇は過去に10代8人(いずれも男系女子)その御子は天皇にはなりません。どんなに遠縁でも男系男子で紡ぎます。そもそも天照大神が女性神ではないかという極論もあります。ここまでのブログを読んでいただいた人はご存じですが、天照大神が正勝吾勝々速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)を お産みに成ったのは須佐之男命との誓約(うけい)によってです。三種の神器から誓約で産めるなら(男子を介さないなら)女性天皇の継が誓約で産まれた天皇でも良いという議論が起こるかもしれません。

皇族に男系男子がいなくても、神武天皇に連なる男系男子は数十人いるという説が有力です。
不安定なことは確かですが末期状態ではありません。それより日本人の少子化のほうが問題なくらいです。私たちの世代が、これまでの千年以上紡いできた先人の努力を破壊する権利があるのでしょうか。
一度壊したら永久に戻らない皇統。そんな傲慢なことが許されて良いものか。と私は考えます。
それこそ、日本人の大御祖神に申し訳が立ちません。人間25代遡ると直接血縁者は一億を超えます。
126代ということはその中で全員繋がっていますけど。男系男子直系126代というのが如何に奇跡かということがこの冊子から読み取れたでしょうか。
今の程度で男系男子が危機だという為政者は仕事をしなければなりません。宮内庁も男系男子を護る気がないなら必要ないですね。

天皇は神代から続く皇祖皇宗の祭司主、神道を護る最も重要な役割でありますから、宮中祭司こそが本業であって代々そうしてこられました。国民統合の象徴などの語は不敬です。天皇を戴いているから日本国なのです。天から天下った際、天孫(天照大御神の孫神であるから)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が神勅(神からの言葉)を授かりますが、古事記には「この豊葦原水穂国は、汝知らさむ国ぞと言依さしたまふ」としか出てきません。日本人向けには多くの言葉を必要としないからでしょうか。外国向け文書の日本書紀には、しっかり三大神勅として記載があります。現代日本人には必要ですから書いておきましょう。

どうですか。最も重要なのは天壌無窮の神勅(てんじようむきゅうのしんちよく)と言われています。天皇が治めている限り日本の国は栄える。日本の国が栄えることが神の喜びであると書かれています。逆に言うと天皇の存在。皇統の存在が危うくなれば日本も危機となり、皇統が断絶すれば皇祖皇宗(神)とのつながりが切れる。日本はどうなるんでしょうか。少なくとも島の形は変わらなくても日本じゃなくなるのでしょう。私はそんな日本は見たくない。だから今、毎日祈っています。皇室の弥栄(いやさか)を。我ら日本人として。
敗戦の誤謬
2022年08月16日
昭和39年生まれは戦後19年だったと思うと戦争の記憶がまだ強く残っていたのでしょう。受けた教育も戦争の反省ということもあったのでしょうか過剰な反戦教育だったと思います。ここに書けないようなとても残忍な日本人の行為の数々を授業で教師が語っていました。私の亡祖父は出征した満州での思い出をいつも楽しそうに話していたのでそのギャップに違和感を覚えたものです。当時は学校教育のほうを信じていました。そんな人は多いのだと思います。そんな逆洗脳状態から今の若い人は脱しつつあるとのことですから喜ばしいことではありますが日本が国力を落としている現代、知識が正しくても肝心の個人の幸福が置き去りになるのは残念です。日本としての誇りを取り戻すと同時に日本の未来についても明るいものにしなければなりません。日本が繁栄してはいけないと思うような教育を私たちは受けてきました。国力や軍事力が増すとまた侵略を始めるなんて思わされてきたのです。そんな誤謬がなぜ生まれたのか私なりに記したいと思います。例によって長文ですがファクトチェックは各自でよろしくお願いします。いずれ大東亜戦争は近代史のテーマとして別途取り上げます。
第一に日本の戦争の終わらせ方東京裁判と戦争犯罪についてについて(松井石根)
第二に終戦の詔書から昭和天皇の御心について
・日本の戦争の終わらせ方
先の戦争は日本では大東亜戦争と呼ばれていました。戦後この呼び方は占領政府によって禁じられ太平洋戦争となっています。占領が解かれ自主権を得ても日本では太平洋戦争と呼んでいます。靖国の英霊は太平洋戦争って何?と思っているでしょう。それで私は大東亜戦争というようにしています。世界的にはアジアでアメリカと日本が戦争していただけではありません。第2次世界大戦だったのです。第2次ということは1次があったわけです。1914年-1918年 ドイツ帝国・オーストリア・ブルガリア・オスマン帝国(同盟国)×イギリス・フランス・ロシア帝国・日本・アメリカ・セルビア・モンテネグロ・ルーマニア・中華民国・イタリア(連合国)のヨーロッパでの戦争ですが日英同盟が機能していましたから連合国の日本が先勝側になったのです。戦後処理でドイツが太平洋方面にもっていた島々を委任統治することになってChinaでもドイツの権益を継承してしまうのです。第2次大戦は1939年9月にイギリスとドイツの間で始まり1941年6月にはソ連とドイツ12月にドイツの同盟国になっていた日本が真珠湾を攻撃することになるわけです。開戦の事情が全く違うのですが日独伊対連合国という負け組に入ってしまいます。この辺の理由も学問になっているくらい諸説ありますが1921年に日英同盟を破棄せざるを得ない状況になったことは後の歴史に大きな影響があったでしょう。第2次世界大戦の終わり方については連合国対ドイツ・連合国対日本で大きく異なります。1945年の5月にはドイツはすでに降伏していました。またドイツはナチスという一政党が戦争を起こしたことになっています。ナチスはホロコーストという名の人種差別大量虐殺(600万人説あり)という人権蹂躙問題をおこしていました。このドイツと日本の戦後処理に共通点、相違点があります。ドイツは4月にヒトラーが自殺して5月7日連合国に無条件降伏しました。
日本は8月15日が終戦の日とされていますがポツダム宣言という降伏条件が米・英・Chinaから示されたのが7月26日、8月8日にソ連が後追いで提示国に乗ってきます。この受託を決定通知したのは8月14日、調印したのが9月2日です。8月15日は天皇陛下がポツダム宣言を受託することを国民に放送で知らせた日ですね。1963年に「終戦の日」が1982年に「終戦記念日」が閣議決定されて追悼式などが行われているということです。
さて、本題はドイツと日本の敗戦処理についてです。この2つの国を同じ内容で制裁できなかったのです。制裁と書きましたが連合国にとってはあくまで戦後処理ですが受けた側にとっては実質的には制裁ですね。負ければこうなります。恐らく現在進行形のロシアとウクライナもどちらかが勝つか負けるかで受ける戦後処理は全く違うことになるでしょう。国際社会はそれに異論は唱えるかもしれませんが手出しはしないでしょう。それが現実です。
英首相ウィンストン・チャーチルは戦犯処罰を連合国の戦争目的に位置付けます。1941年12月の大西洋憲章はナチスの破壊を目的とするものです。

ドイツ日本とも戦勝国は国家の
改造をしようとします。
・ナチス指導者を裁く
ニュルンベルク裁判(左)
・日本の戦争指導者を裁く
東京裁判(極東国際軍事裁判)(右)
ここで今までの戦争犯罪と違うカテゴリーが必要になるわけです。禁じ手の法の遡及です。(後から罪を作る)
何故かというとナチスが行った大量虐殺を裁く罪名がなかったので戦争犯罪にカテゴリーを作りました。
カテゴリーBは「戦争犯罪」(従来からある戦争法違反)
カテゴリーCは「人道に対する罪」(ナチス大量虐殺処罰用の新しい概念(残虐行為処罰))
カテゴリーAは「平和に対する罪」(侵略戦争再発防止用の新しい概念)
これらはアメリカ陸軍省が主導し先に裁判になったドイツ用の概念が東京裁判にも流用されました。
ニュルンベルクの裁判所が国際合意であるロンドン協定により設置されたのに対し東京裁判はマッカーサー連合国最高司令官が裁判所を設置ということになっています。いちアメリカ人がなんでそんな権限があったのでしょうか。私怨ですか。まあマッカーサーの言うことを日本人はよく聞くわけです。鬼畜米英とか言っておきながらコロッと変わってしまう。現代日本人に通じるものがありますね。

従来の戦争犯罪は世界中40カ国以上で裁かれました。死刑になった日本人(朝鮮人・台湾人を含む)英霊は1000人以上です。彼らが言いたかったことは「BC級戦犯60年目の遺書」を読みましょう。よくわかります。いっさい夢にござ候 - 本間雅晴中将伝」も読みましょう。マッカーサーにI shall returnと言わせた男です。「一粒の麦 提督 醍醐忠重の最後」(海軍中将)も良いですね。皆武人にふさわしい最期でした。
東京裁判では28人が起訴されて7人が死刑になりました。11人の戦勝国判事のうちインドのラダ・ビノード・パール判事のみが不戦条約は防衛戦争までは禁止していないこと。防衛戦争は各国の概念があり満州等の占領地の維持目的である日本の軍事行動も防衛戦争ではないとは言えないと主張しましたが判決は覆りませんでした。
7名の死刑囚のうち廣󠄁田弘毅は外務官僚でしたが日本の武人は立派に刑を受け入れました。言いたいことはたくさんあったと思います。刑が執行された1948年12月23日は当時の皇太子殿下、今の上皇陛下の誕生日、陰険だと思いませんか。A組7人(東条英機・廣田弘毅・土肥原賢二・板垣征四郎・木村兵太郎・松井石根・武藤章)のうち廣田弘毅は政治家、それ以外の6名は陸軍軍人です。武藤章だけが中将であり運不運もあるのかと思います。
【日本には戦犯はいない】(当時の国民の総意)
当時の日本人の立派なところは矛盾や理不尽を改めたところです。連合国の占領下から脱した昭和27年5月1日に法務総裁が東京裁判での戦犯は「平和条約発効と共に撤回されたものとする」という主権回復した国家としての通達を出し、翌昭和28年8月3日「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」が上程され、旧社会党・共産党を含む全会一致で可決(共産党は当時会派がなかったとして現在は否定)して全ての戦争犯罪人というものは正式に存在しないものとなりました。その時国民の赦免署名は四千万集まったとか眞に日本人の総意といえます。
国会では、この28年以外でも
昭和27年6月9日、参議院本会議「戦犯在所者の釈放等に関する決議」、
昭和27年12月9日、衆議院本会議「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
昭和30年7月19日、衆議院本会議「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
をしているのが事実です。戦争犯罪に関しては清算済み。全員「戦争による公務死」で罪人じゃありません。
今年もまた特定のお隣さんからクレームが来ているようですが日本人なら正しく反論しましょう。
「国内で解決済みなので内政干渉はやめてください」と。
さてA組7人ですが同じ日に処刑されたのが7人で松井石根大将だけはB組扱いです。(A組で無罪)
松井石根大将についてはもっと先で書くつもりでしたが思い入れがあるのでここに記します。
松井石根は昭和10年に予備役になっています。現役終了者、ご隠居です。(乃木希典も予備役でした)
China側でいう南京大虐殺という事件の責任を取ったのです。Chinaをとても大切に思っていた人だったのに。
知らないというのは愚かなことです。外人にはわからなかったのでしょう。この大将の人となりを。
松井将軍はChinaを愛し日支友好こそがアジア安定の要であるという確固な思いを持っていました。日支関係が悪化の一方をたどったため59歳で上海攻略戦の総司令官として召集されてしまいます。

巣鴨プリズン 現サンシャインシティ

中華民国の父 孫文と蒋介石 中華民国とは台湾
中国革命の父「孫文」の大亜細亜主義に強く共鳴してChina駐在武官に志願したほどChinaを愛していました。蒋介石とも親交があって蒋が日本で暮らした際には生活の支援をするなどの人物がまことに因縁的なことに蒋が誇大喧伝した「南京大虐殺なるもの」により処刑されてしまう。蒋介石は後に「松井閣下にはまことに申訳ないことを致しました」と回述したという話も真偽はわかりませんが残っています。
Chinaを愛し孫文の革命を助け留学生当時から面倒を見た松井石根、巣鴨プリズン(現サンシャインにあった処刑所)収監前の言葉「乃公(自分)はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないなぁ」と語ったとか。
この言葉、私には100人切りの汚名を着せられ処刑された向井少尉の辞世と重なります。以下に記します。
「我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。・・・我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。中国の御奮闘を祈る日本の敢奮を祈る、中国万歳、日本万歳 天皇陛下万歳 死して護国の鬼となります」どうですか。たとえ自分に罪はなくとも自分の死をもって日本とChinaの友好の礎になるなら本望と言っているのです。立派ですね。B組の遺書にも同様の言葉はたくさん出てきます。是非読んでください。

興亜観音について書きます。
静岡県熱海市の伊豆山中腹に「興亜観音」は立っています。昭和15年(1940年)帰国後の松井は傷病兵の慰問や全国の護国神社の参拝など退役軍人として英霊の冥福を祈り遺族とかかわるなど慰霊に努めました。やがて東京の官舎を引き払い伊豆山に転居、興亜観音を建立し日本、支那両国の戦死者を弔います。観音堂への参詣と朝夕の観音経の奉唱を欠かさず全国の傷病兵の見舞いに努める一方、支那各地の戦跡 を巡るとともに亜細亜の独立のために奔走しました。松井将軍の尊敬した乃木希典大将も時代は異なりますが日露戦争旅順要塞攻撃で亡くなったロシア軍兵士慰霊のため追悼碑の除幕式に参加するなど慰霊に努めていたそうです。
松井将軍は畑軍司令官にお願いしChinaから運んだ土で陶工柴山清風氏に一次焼成、彫塑家小倉右一郎氏に原型の修正を依頼。常滑の杉江製陶所にて仕上げの焼成を行って製作されました。
【興亜観音開眼式後の松井石根インタビュー】(主婦の友)
「部下の英霊と共に住みたい。それが、私の永い間の願ひであった。今ここに幾多同感の人士、併に熱海市各方面の協力によりて興亜観音の完成を見、開眼式を行ひ、日夜諸君の霊を慰め得ることを、私は衷心(ちゅうしん)から歓ばしく思ふのである。大命を拝して江南の野に轉戦(てんせん)し私は敵味方幾多の将兵の貴い生命を滅ぼした。南京入城の翌日、戦没将兵の慰霊祭を行つたのであるが、その時、私の脳裏に浮かんだのは、皇軍将士の忠勇義烈の様と共に、蒋政権の傀儡(かいらい)となつて、徒らに生命を捨てた、哀れな支那人の犠牲者のことであつた。 皇軍の将兵は、その最後において一様に、陛下の萬歳を唱へまつり、莞爾(かんじ)として皇国のために殉じたのである。この姿は、成佛の姿でなくして何であらう。また、靖国神社に神として斎(いつ)き祀られ、萬人の景仰のもとに永遠に神鎮まり給ふのである。
ひきかへて支那の犠牲者達は、その多くが、些末(さまつ)の囘向(えこう)をも受けることなくして、空しく屍を荒野にさらしている。その亡魂は成佛することができずして、大陸にさまようていることであらう。この哀れな犠牲者を、皇軍将士と共々供養してやりたいといふ願ひは、私の心深く根ざすところがあった。命により、數多の部下を残して帰還するに當つて、私は人に託して部下の遺骨と、日中両国将兵が戦没の地の霊土をもって佛像を作り、両国の戦没将兵を平等に祀ることにした。すでに靖国神社に神として祀られ、皇国の英霊を、私してお祀りすることは、まことに僭越であつた。しかし私個人として、私の部下であつた多くの勇士に對する感謝と愛惜(あいせき)の情はまことに禁じ難く、僭越ながらかうして英霊を祀り、これを一般に公開することにしたのである。両国殉難者を祀るためには、相通じる佛教もつてすべきだと思つた。そして各宗派に超越している観世音を祀り、その大慈大悲の念力によって數多の亡魂を救ひ、普く三千大千世界を照らす観音の光明をもって、業障を浄除して、両国犠牲者の霊が、地下に融和せんことを願つたのである。更に、我が身を殺して大慈を布き、畏(おそ)れなきを施すといふ施無畏(せむい)の観音の精神は、即ち八紘一宇の興亜大業の精神に他ならぬ。
諸人と共に、両国犠牲者の冥福を怨親平等に囘向(えこう)し、八紘一宇の大精神を具現する、日支親善の守り本尊となるならば望外の幸福である。私が興亜観音の建立を発願したのは、この目的に他ならなかつた。携えて来た霊土は、陶土に混へて、上餘(じょうよ)の外佛と二尺餘の内佛の二體作つて興亜観音となし、部下勇士達の遺骨は、寶蓮華臺(ほうれんげだい)の中にねんごろに納めた。この伊豆山の麓に居を移した私は、朝夕(ちょうせき)の閼伽(あか)の水を奉るべく、杖を引いて山路を登り下りする。 観音像の御前に合掌して、想ひを蒼海萬里(そうかいばんり)の外に馳(はせ)するとき、うたた感慨切なきものなきを得ない。諸君と共に死すべかりし身の、命により帰還して後、私の眼前に見んとして見得ず、しかも脳裏を巡って離れぬものは、諸君が戦場において、敢然敵陣に突入せんとする忠勇義烈の姿であった。いま諸君のこの姿を、興亜観音の御像の上に仰ふ。私はこの観音堂にあつて、身の餘生を、諸君の霊を守つて明し暮らしたいと思ふ。しかしながら、諸君の莫大の命を捧げし、興亜の聖業未だ成らざるのとき、徒らに身を閑居の安きに処しているべきではない。言うまでもなく地位の如何を問わず、なほまた何かと邦家(ほうか)のため微力をいたすの義務ありと信じている。 聖業の成れる暁にこそ、私は興亜観音像の堂主として、諸君の霊に仕えへて餘生を終わりたいと思ふ。」
立派です。でも死刑でした。
【伊豆の生活を支えた女中の杉江清子さんによる松井大将の日課】
「まず朝起きると、家にいらっしゃるときは興亜観音さまのところへ。ユリコという犬がいてね、(松井大将と)ユリコと私と3人で行くんだがね。私は旦那様の背中を押してさしあげて、そしたら旦那様も一生懸命に山道を上がって。南京陥落で亡くなった部下たちのことをすっごく可哀想に思って、南京の土を持ってきて観音さまを造って、そういう戦死した人の供養をなさっていた。だから毎日観音さまのところへ行っていた。季節を問わず毎日です。雨が降っても私が傘をさして旦那様の背中を押して行っていた。そして合掌し、じーっと10分か15分ぐらいかなあ、毎日供養をなさっていたんです」「私は、どうしてそんなね、旦那様が悪いわけじゃないのにね、なんで戦犯にならなければいけないんだろうと思ってね。なんであんないい旦那様がそんなことしないといけないんだろうかと思って、泣けてしかたがなかった。絶対に旦那様はあの世でいいところに行ってると思う。極楽へ行ってると思う。そんなね、悪い人じゃないもん。いまでも会えたら会いたいわ。本当にかわいがって下さった。親よりかわいがってくれた。だから、会えたらいまでも会いたい。優しい言葉をかけてあげたい。是非、旦那様のそういう濡れ衣を晴らしてあげてください」
人格者です。でも死刑です。
皇軍は明治が最強。連合軍としての亜細亜最初の軍隊、元々の明治人の気質に綱紀粛正が行き届いた最高の軍隊。大正昭和となるとモラルの低下もあったようです。日本人の劣化が明治から見ればあったのだと思います。明治の軍人だった松井大将が予備役から上海攻略戦の総司令官として召された時59歳です。綱紀粛正に関しては明治の軍人らしく大変拘ったのですが相手は大正昭和生まれの若い兵。松井大将はどう見られていて下士官はどう従ったのか。ともかく松井大将の南京入場に際しての指示をみてみましょう。

松井石根大将 南京入城
〈捕虜の虐待や民間人に被害を与えないよう上海と南京の攻略戦において松井将軍が何度も「戦時国際法」に基づいて軍紀を守るよう念を押しています。軍紀に厳しい理想肌の松井中将の下にいたのは大正昭和世代の下士官でした。南京事件はゼネレーションギャップが戦場で引き起こされた悲劇といえるかもしれません。〉
〈松井は南京攻略を前に「南京錠攻略要領」〈略奪行為・不法行為を厳罰に処すなど厳しい軍紀を含む〉を兵士に示した。日本軍は「降伏勧告文」を南京の街に飛行機で撒布した。翌日、降伏勧告に対する回答はなく、南京総攻撃が始まり、南京陥落。松井が南京入城。このとき、松井は一部の兵士によって掠奪(りゃくだつ)行為が発生したと事件の報を聞き、「皇軍の名に拭いようのない汚点をつけた」と嘆いたという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮(けいぶ)の思想を念を押すようにして戒めた。〉
〈翌日慰霊祭の前に、各師団の参謀長らを前に、松井は彼らに強い調子で訓示を与えた。松井は「軍紀ヲ緊粛スヘキコト」「支那人ヲ馬鹿ニセヌコト」「英米等ノ外国ニハ強ク正シク、支那ニハ軟ク以テ英米依存ヲ放棄セシム」などと語ったという。松井は軍紀の粛正を改めて命じ、合わせて中国人への軽侮の思想を念を押すようにして戒めたそうです。〉
〈南京に向かう途中での話。松井大将が南京戦に向かう途中 日本軍の戦死体は埋葬されて、戦場清掃を済ませていました。それを見た松井大将は、二人の参謀を呼びつけ 日本兵の死体だけを片付け支那兵の戦死体を放置したままにするとは何ごとかと叱りつけたそうです。〉
日露戦争後、蒋介石を援助してChina統一させたかった松井石根。関東軍(中華民国から租借した地域の日本陸軍守備隊)は逆に済南事件(1928年)をきっかけに蒋介石と敵対します。それでも1933年に「大亜細亜協会」を設立し欧米列強に支配されるアジアからの脱却のためChinaと協力しようとします。1934年に現役を退いて予備役になります。ここからの再登場となるのですから松井大将がいかにChinaを尊敬し敬愛していたかわかるでしょう。松井大将は親Chinaとして再度、世界の見る目を気にした陸軍から徴用され司令官としてChinaの地を踏みます。にもかかわらず逆に南京入城後にChinaに対して弱腰とみられ更迭されたのです。帰国後、日支双方の犠牲者の慰霊の日々を送りながらA組戦争犯罪で訴追されますがA組は無罪だけれどB組で死刑となったわけです。Chinaの言う南京大虐殺があったのなら仕方ないかもしれません。でも通常の戦闘の延長だったら。否、戦争に負けていなかったら結果は違っていたでしょう。なんという皮肉な結果でしょうか、他の軍人同様、松井将軍は死刑を肯定的に受け入れたでしょう。ただし、Chinaに対する気持ちを理解されないとしたら無念でしょう。同じ死でも無念でしょう。私たちはその無念な気持ちを汲んで日支双方の犠牲に対して悼まなければならないのではないでしょうか。
今日は送り盆、神道の家系であってもその御霊は各家でくつろいで帰るのでしょう。思い入れが強すぎて松井石根大将の文章が長くなってしまいました。なぜかと言えば悔しいから。日本人があまりにも関心を持たない。反日義務教育の中で私もA級戦犯は一番悪い人のような刷り込みにあって、この問題は日本人として触れてはいけない恥ずかしい問題だと思いこまされていました。だから戦争犯罪人として刑を負った一人一人にドラマがあって言い分はあったはずですが戦勝国が敗戦国を一方的に裁くことができたこの裁判の判決を当時受託はしたのは確かですが今振り返って正しかったかの検証はなされるべきでしょう。Chinaを愛した松井石根大将はChinaが建設した南京記念館で堂々と罪悪人として展示され「日本のヒトラー」とさえ呼ばれているそうです。私はそのことが悔しい。本人が一番無念でしょうけれど日本人が一人でも知るきっかけになってほしいという思いです。
A組七人のための殉国七士廟
(じゅんこくしちしびょう)の話をしましょう。
ニュンベルク裁判でC組により死刑執行になった11名の遺骨は埋葬されることを許されず。川に流されます。このことからも報復的な目的があることが分かります。
日本にはC組「人道に対する罪」で起訴された人はいません。きっと原子爆弾を落とした人を裁判にかければC組になるでしょう。日本人も公式にはA組戦争犯罪者の遺骨は太平洋に撒かれたことになっています。遺骨の遺族への引渡しはマッカーサーが許しませんでした。

武人が望む死に方といえば切腹。フィリピンで死刑になった本間雅晴中将は銃殺。「さあ来い」が最後の言葉。望まない死に方は絞首刑。A組7人は昭和23年12月23日午前零時に13階段を上ります。処刑後横浜の久保山火葬場で焼いた後、米兵が骨を混ぜ合わせて一つにします。尊厳なんて死んでも与えられません。占領軍は遺骨を太平洋に捨てたと発表。日本人の手のひら返しで「戦争初めて悪いことをしたA級戦犯」という悪いイメージを刷り込み。それに乗る人もいます。多くの日本人はこの粗末な扱いには怒らなかったようです。残念です。
実は遺骨奪還を企てる人がいました。東京裁判の一部弁護士と僧侶。心ある人もいたものです。命がけの奪還です。一部を闇に紛れて持ち出していましたが一度は失敗しクリスマスで手薄になった隙に改めて骨捨て場からすくいあげた骨を持ち帰りしばらくは松井石根大将の興亜観音に安置されていたそうです。
愛知県西尾市東幡豆町に三ヶ根山があります。そこに殉国七士廟が立っていて碑文にこう書かれています。
「昭和23年12月23日未明、巣鴨で絞首刑を執行された。米中ソの三国代表が立ち会い陛下の万歳を三唱して台上の露と消えた。この時の処刑係は米軍のマルチン・ルーサー・キング軍曹、後の黒人運動家の牧師であった。昭和35年に三ヶ根山に廟と墓碑が建立された。七氏を顕彰するためではなく、殉国者を悼むためのものである」
毎年4月29日「昭和天皇御誕生の日」に慰霊祭が行われます。現在では殉国七士廟の存在は多くの人々に知られ七士廟の周辺に大東亜戦争での戦没者を祀る各部隊の慰霊碑が並んでいます。
昭和54年昭和天皇皇后両陛下は第30回全国植樹祭のご出席の際、植樹祭の行われる場所から距離のあるこの三ケ山の高台のホテルにお泊りになりました。陛下のご要望によってです。ホテルからは「殉国七士廟」や「戦没者慰霊碑」が見える場所です。植樹祭当日 早朝侍従がお迎えに上がったところ両陛下は窓越しに廟にお向かいになられ15分間、黙祈されたそうです。

翌年には上皇后陛下と今上陛下、上皇陛下は七氏の命日(ご自分のお誕生日)に毎年使者をお寄せになるとか。靖国が政治利用され訪れることができない中、天皇はじめ皇族方はA組と呼ばれ無念な思いをしている御霊のことを決してお忘れではないということです。
秋篠宮家を侮辱する報道が多いです。後続の権威を貶め不要論を高める目的があると理解しましょう。私はどんな現象が起こっても源流は必ず引き継がれている。男系男子が守られて二千年、三千年と皇室(日本国体)が継続することを信じます。
日清日露大東亜を戦った日本。どの戦争にも開戦と終戦に理由があり天皇が詔(みことのり)を仰せになります。両方書きたいのですが、それは後記事に譲るとし大東亜戦争の終戦の詔勅を取り上げます。戦の詔勅とは日本が開戦終戦する理由を世界や国民に対して宣言するものです。少なくとも天皇のお気持ちが表明されています。この季節どのメディアでも「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」の部分だけを繰り返し流します。彼らは何を言いたいのでしょうか。何を印象付けたいのでしょうか。報道機関としてその時の天皇のお気持ちである詔勅を取り上げたことがあるのでしょうか、少なくとも私はテレビや新聞で解説を聞いたことがありません。日本のメディアなのに。だから知らない日本人もいけないと思いますので書いておきます。

【終戦の詔勅】原文
朕深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝国政府ヲシテ米英支蘇四国ニ対シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ 抑々帝国臣民ノ康寧ヲ図リ万邦共栄ノ楽ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二国ニ宣戦セル所以モ亦実ニ帝国ノ自存ト東亜ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他国ノ主権ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス
然ルニ交戦已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海将兵ノ勇戦朕カ百僚有司ノ励精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ尽セルニ拘ワラス戦局必スシモ好転セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス 加之敵ハ新ニ残虐ナル爆弾ヲ使用シテ頻ニ無辜を殺傷シ惨害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル 而モ尚交戦ヲ継続セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招来スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ 斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝国政府ヲシテ共同宣言ニ応セシムルニ至レル所以ナリ朕ハ帝国ト共ニ終始東亜ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ対シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝国臣民ニシテ戦陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内為ニ裂ク 且戦傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ 惟フニ今後帝国ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル 然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所 堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス 朕ハ茲ニ国体ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ 若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ乱リ為ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム 宜シク挙国一家子孫相伝ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ 爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ体セヨ
【終戦の詔勅】現代訳
私は、世界の情勢とわが国の現状とを状況を深く考えあわせ 特な手立てをもってこの事態を収拾しようと決意し私の忠良なる国民に告げる。
私は わが政府に対しアメリカ・イギリス・中国・ソ連の4カ国に共同宣言(ポツダム宣言)を受諾する旨を通告させた。そもそも わが国民が平穏で安らかに生活できるよう心がけ世界の国々が共に栄えその喜びを共有することは 歴代天皇が手本として遺してきた教えであり私も常に祈ってきたところでもある。よってアメリカとイギリスの二国に宣戦布告した理由も わが国の自存とアジアの安定を心から願ったためであって他国の主権を排除したり領土を侵略したりするようなことは、まったく私の意志ではない。 しかしこの戦争が始まってすでに4年が経過し陸海軍の将兵は勇敢に戦い多くの役人たちも職務に励み、一億国民もそれぞれの職域に奉じ最善を尽くしてきたが戦局は必ずしも我がほうに好転せず 世界の情勢もまた日本にとって不利である。そればかりでなく 敵は新たに残虐な爆弾(原子爆弾)を使用して多くの罪なき人々を殺傷しその惨害がどこまで広がるかはかり知ることができない。このような状況で なおも戦争を続けるなら我が民族の滅亡を招くだけでなく ひいては人類の文明をも打ち壊すことになってしまうであろう。そのような事態になれば、私はどうして我が子である国民を守り歴代天皇の御霊お詫びすることができるであろう。これこそ私が政府に対しポツダム宣言を受託するに至った理由である。
私は、わが国とともに終始亜細亜の解放に努めた友好諸国に対し残念な想いを表明しないわけにはいかない。わが国民でも戦死したり職場で殉職したり不幸な運命で命を落とした人々やその遺族に思いをはせると悲しみで身も心も裂かれる思いである。また戦争で負傷し空襲などの戦禍に遭って家業を失った人々の生活を考えると深く心を痛めている。考えるに これからわが国が受ける苦難は大変なものだろう。 わが国民の気持ちも私はよく理解している。しかし時代の移り変わりはやむを得ないところであり耐えがたいことを耐えて我慢し難いことも我慢して人類未来の平和を実現するため道を拓いていきたい。
私は今ここに、国体を守り得て(皇統護持)忠良な国民の真心を信じつつ常に国民とともにある。もし感情のままに みだりに争いを起こしたり仲間同士互いに相手を貶し陥しいれたりして時局を混乱させ そのために人間の行うべき道徳を誤って世界から信用を失うようなことがあれば それは私が最も戒めたいことだ。全国民が家族のように仲良く団結し国を子孫に受け継ぎ わが国の不滅を固く信じ 国の再建と繁栄への任務は重く その道のりは遠いことを心に刻み持てる全ての力を未来の建設のために注ぐように。道義心を大切にし志を強くもって わが国の美点を発揮し世界の進歩に遅れないよう努力しなければならない。 わが国民よ、これが私の真意で意のあるところをよく理解して行動してほしい。
天皇の終戦の詔書の後半にお気持ちが良く出ていますね。堪えがたきを堪え・・が大事なところじゃないのもわかりましたね。なぜ全体を報道機関はもっと取り上げなければならないでしょう。教育勅語を忌避するGHQの教えに忠実なアメポチ日本の報道機関らしい対応です。戦前のものが全て間違っているというGHQのほうが間違っていたと思います。「皆と仲良く力を合わせて伝統を受け継ぎ栄えましょう」と日本人は言ってはいけないそうです。皇祖皇宗歴代天皇の教えですけれども。
米国人がいかに日本の天皇を理解できなかったか
分かる逸話を二つ。
〈ダグラスマッカーサーの面会〉
昭和20年9月27日、来日に合わせて昭和天皇がマッカーサーのもとへお出ましになった時マッカーサーは他国の戦争指導者同様、天皇陛下が命乞いに来られたと思ったのです。陛下は「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行われました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応じる覚悟でおります。しかしながら罪なき八千万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えないものがあります。温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
と仰せらて菊の御紋の袱紗包みを開けられました。そこには皇室の全財産目録がありました。自分の命はどうなってもよい天皇家の全財産をすべて差し出すので飢えた日本国民を救ってほしいということです。
https://www.youtube.com/watch?v=inE1DSH0jrk
1946年(昭和21年)2月から1954年(昭和29年)8月までの間に昭和天皇は日本国内を巡幸されます。各国の戦争指導者がそうだったように。GHQは各地で天皇が罵声を浴びたり暴漢に襲われることを予想していました。ところが各地で大歓迎を受けます。日本人の心が外国人にはわからないのでした。

〈天皇陛下さまが泣いてござった〉
昭和24年5月24日 佐賀県巡幸
この日陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある「因通寺」というお寺に行幸されています。
因通寺は、戦時中に亡くなられた第十五世住職の恒願院和上が、皇后陛下の詠まれた歌を大きな幟(のぼり)にして、それを百万人の女性たちの手で歌を刺繍して天皇陛下と皇后陛下の御許に奉じ奉ろうとされていたのです。
その歌というのが、昭和13年に皇后陛下が戦没者に対して詠まれた次の二首です。
『やすらかに 眠れとぞ思う きみのため いのち捧げし ますらをのとも』
『なぐさめん ことのはもがな たたかいの にはを偲びて すぐすやからを』
陛下は、このことをいたく喜ばれ、皇后陛下はすぐに針をおとりになって、御みずからこの大幟に一針を刺繍してくださったという経緯があります。また終戦後には因通寺は、寺の敷地内に「洗心寮」という施設を作り、そこで戦争で羅災した児童約40名を養っていました。
陛下が寺におこしになるという当日、寺に至る県道から町道には、多くの人が集まっていました。道路の傍らはもちろんのこと、麦畑の中にも、集まった方がたくさんいました。その町道の一角には、ある左翼系の男が麦畑を作っていました。この男は、行幸の一週間くらい前までは、自分の麦畑に入る奴がいたら竹竿で追っ払ってやるなどと豪語していたのですが、当日、次々と集まってくる人達の真剣なまなざしや、感動に満ちあふれた眼差しをみているうちに、すっかり心が変わってしまい、自ら麦畑を解放してここで休んでください、ここで腰を下ろしてください」などと集まった方々に声をかけていました。朝、8時15分頃、県道から町道の分かれ道のところに、御料車が到着しました。群衆の人達からは、自然と「天皇陛下万歳」の声があがりました。
誰が音頭をとったというものではありません。群衆の自然の発露として、この声があがりました。
御料車が停車しますと、群衆の万歳の声が、ピタリとやみました。一瞬、静まり返ったところに、車から、まず入江侍従さんが降り立たれ、そのあとから陛下が車から降りられると、入江侍従さんが、陛下に深く頭を下げられる。その瞬間、再び群衆の間から、「天皇陛下万歳」の声があがりました。陛下は、その群衆に向かって、御自らも帽子をとってお応えになられる。その姿に、群衆の感動はいっそう深まりました。ここに集まった人達は、生まれてこのかた、お写真でしか陛下のお姿を拝見したことがない。その陛下が、いま、目の前におわすのです。
言い表すことのできないほどの感動が群衆を包み込みました。お車を停められたところから、因通寺の門まで約700メートルです。その700メートルの道路の脇には、よくもこんなにもと思うくらい、たくさんの人が集まっていました。そのたくさんの人達をかきわけるようにして、陛下は一歩一歩お進みになられたそうです。
町役場のほうは、担当の役席者が反日主義者(当時、まともな人は公職追放となり、共産主義者が役席ポストに座っていた)で、まさかこんなにも多くの人が出るとはおもってもみなかったらしく、道路わきのロープもありません。陛下は、ひとごみのまっただ中を、そのまま群衆とふれあう距離で歩かれたのです。そして沿道の人達は、いっそう大きな声で「天皇陛下万歳」を繰り返しました。その声は、まるで大地そのものが感動に震えているかのような感じだったと言います。陛下が寺の山門に到着されました。
山門の前は、だらだらした上り坂になっていて、その坂を上り詰めると、23段の階段があります。その階段を登りきられたとき、陛下はそこで足を停め、「ホーッ」と感嘆の声をあげられました。そうです。石段を登りきった目の前に、新緑に彩られた因通寺の洗心の山々がグッと迫っていたのです。陛下は、その自然の織りなす姿に、感嘆の声をあげられた。陛下が足をお留めになられている時間があまりに長いので、入江侍従さんが、陛下に歩み寄られ、何らかの言葉を申し上げると、陛下はうなずかれて、本堂の仏陀に向かって恭しく礼拝をされました。
そして孤児たちがいる洗心寮に向かって歩かれました。寮の二階の図書室で、机を用意して、そこで佐賀県知事が陛下にお迎えの言葉を申し上げるという手はずになっていたのです。図書室で、所定の場所に着かれた陛下に、当時佐賀県知事だった沖森源一氏が、恭しく最敬礼をし、陛下にお迎えの言葉を述べました。
「本日ここに、90万県民が久しくお待ち申し上げておりました 天皇陛下を目の当たりに・・・・」
そこまで言上申し上げていた沖森知事は、言葉が途切れてしまいました。知事だって日本人です。
明治に生まれ、大正から昭和初期という日本の苦難の時代を生き、その生きることの中心に陛下がおわし、自分の存在も陛下の存在と受け止めていたのです。知事は陛下のお姿を前に、もろもろの思いが胸一杯に広がって、嗚咽とともに、言葉を詰まらせてしまったのです。するとそのとき入江侍従さんが、知事の後ろにそっと近づかれ、知事の背中を静かに撫でながら、「落ち着いて、落ち着いて」と申されました。
すると不思議なことに知事の心が休まり、あとの言葉がスムーズに言えるようになったそうです。
この知事のお迎えの挨拶のあと、お寺の住職が、寺にある戦争羅災孤児救護所についてご説明申し上げることになっていました。自分の前にご挨拶に立った知事が、目の前で言葉を詰まらせたのです。自分はあんなことがあってはいけない、そう強く自分に言い聞かせた住職は奏上文を書いた奉書を持って、陛下の前に進み出ました。
そして書いてある奏上文を読み上げました。
「本日ここに一天万乗の大君をこの山深き古寺にお迎え申し上げ感激これにすぎたるものはありません」
住職はここまで一気に奏上文を読み上げました。ところがここまで読み上げたところで、知事の胸にググっと熱いものが突き上げてきました。引き揚げ孤児を迎えに行ったときのこと、戦争で亡くなった小学校、中学校、高校、大学の級友たちの面影、「天皇陛下万歳」と唱えて死んで行った戦友たちの姿と、一緒に過ごした日々、そうしたありとあらゆることが一瞬走馬灯のように頭の中に充満し、目の前におわず陛下のお姿が霞んで見えなくなり、陛下の代わりに戦時中のありとあらゆることが目の前に浮かんで、奏上申し上げる文さえも奏書から消えてなくなったかのようになってしまったのです。
意識は、懸命に文字を探そうとしていました。けれどその文字はまったく見えず、発する言葉も声もなくなってしまいました。ただただ、目から涙がこぼれてとまらない。どう自分をコントロールしようとしても、それがまったく不可能な状態になってしまわれたのです。そのとき誰かの手が、自分の背中に触れるのを感じました。
入江侍従さんが、「落ち着いて、落ち着いて」と背中に触れていてくれたのです。このときのことを住職は、前に挨拶に立った知事の姿を見て、自分はあんなことは絶対にないと思っていたのに、知事さんと同じ状態になってしまったと述べています。ようやく気を取り直した住職は、自らも戦地におもむいた経験から、天皇皇后両陛下の御心に報いんと、羅災孤児たちの収容を行うことになった経緯を奏上しました。この奏上が終わると、何を思われたか陛下が壇上から床に降り立ち、つかつかと住職のもとにお近寄りになられました。
「親を失った子供達は大変可哀想である。人の心のやさしさが子供達を救うことができると思う。預かっているたくさんの仏の子供達が立派な人になるよう心から希望します」
と住職に申されました。住職はそのお言葉を聞き、身動きさえもままなりませんでした。
この挨拶のあと陛下は、孤児たちのいる寮に向かわれました。
孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。
ところが一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人ちゃんと挨拶しようとしません。
昨日まであれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな呆然と黙って立っていました。
すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。それはまるで陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられました。
そして陛下はひとりひとりの子供に、お言葉をかけられました。
「どこから?」-「満州から帰りました」-「北朝鮮から帰りました。」すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。そして「おいくつ?」-「七つです」
「五つです」と子供達が答える。すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり「立派にね、元気にね」とおっしゃる。
陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。
すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。
次の部屋には、病気で休んでいる二人の子供がいて、主治医の鹿毛医師が付き添っていました。その姿をご覧になった陛下は、病の子らにねんごろなお言葉をかけられるとともに、鹿毛医師に「大切に病を治すように希望します」と申されました。鹿毛医師は、そのお言葉に、涙が止まらないまま、「誠心誠意万全を尽くします」
と答えたのですが、そのときの鹿毛医師の顔は、まるで青年のように頬を紅潮させたものでした。
こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられました。
この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられました。それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされたのです。
入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせました。
重苦しい時間が流れました。
ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた三人の女の子の真ん中の子に近づかれました。そしてやさしいというより静かなお声で、「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわかりません。
けれど陛下の目は、一点を見つめています。
そこには、三人の女の子の真ん中の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。
陛下はその二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。
女の子が答えました。「はい。これは父と母の位牌です」これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、
「どこで?」とお尋ねになられました。「はい。父はソ満国境で名誉の戦死をしました。 母は引揚途中で病のために亡くなりました」この子は、よどむことなく答えました。すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。
父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」
この子がそう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。
そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい?」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらました。
しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子です。
仏の子は、亡くなったお父さんともお母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。
お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから私は淋しいことはありません。私は仏の子供です。」
こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。この子も、じっと陛下を見上げていました。陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしました。
そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられました。部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。そして陛下は、
「仏の子はお幸せね。これからも立派に育っておくれよ」と申されました。
そのとき、陛下のお目から、ハタハタと数的の涙が、お眼鏡を通して畳の上に落ちました。
そのときこの女の子が、小さな声で、「お父さん」と呼んだのです。これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられました。その様子を眺めていた周囲の者は、皆、泣きました。東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていました。子供達の寮を後にされた陛下は、お寺の山門から、お帰りになられます。
山門から県道にいたる町道には、たくさんの人達が、自分の立場を明らかにする掲示板を持って道路の両側に座り込んでいました。その中の「戦死者遺族の席」と掲示してあるところまでお進みになった陛下は、ご遺族の前で足を停められると、「戦争のために大変悲しい出来事が起こり、そのためにみんなが悲しんでいるが、自分もみなさんと同じように悲しい」と申されて、遺族の方達に、深々と頭を下げられました。遺族席のあちここちから、すすり泣きの声が聞こえました。陛下は、一番前に座っていた老婆に声をかけられました。「どなたが戦死されたのか?」-「息子でございます。たったひとりの息子でございました」そう返事しながら老婆は声を詰まらせました。
「うん、うん」と頷かれながら陛下は「どこで戦死をされたの?」「ビルマでございます。激しい戦いだったそうですが、息子は最後に天皇陛下万歳と言って戦死をしたそうででございます。でも息子の遺骨はまだ帰ってきません。軍のほうからいただいた白木の箱には、石がひとつだけはいっていました。天皇陛下さま、息子はいまどこにいるのでしょうか。せめて遺骨の一本でも帰ってくればと思いますが、それはもうかなわぬことでございましょうか。天皇陛下さま。息子の命はあなたさまに差し上げております。息子の命のためにも、天皇陛下さま、長生きしてください。ワーン・・・・」そう言って泣き伏す老婆の前で、陛下の両目からは滂沱の涙が伝わりました。そうなのです。この老婆の悲しみは陛下の悲しみであり、陛下の悲しみは、老婆の悲しみでもあったのです。そばにいた者全員が、この様子に涙しました。遺族の方々との交流を終えられた陛下は、次々と団体の名を掲示した方々に御会釈をされながら進まれました。
そして「引揚者」と書かれた人達の前で、足を停められました。そこには若い青年たちが数十人、一団となって陛下をお待ちしていました。
実はこの人達は、シベリア抑留されていたときに徹底的に洗脳され、日本革命の尖兵として日本の共産主義革命を目的として、誰よりも早くに日本に帰国せしめられた人達でした。
この一団は、まさに陛下の行幸を利用し、陛下に戦争責任を問いつめ、もし陛下が戦争責任を回避するようなことがあれば、暴力をもってしても天皇に戦争責任をとるように発言させようと、待ち構えていたのです。
そしてもし陛下が戦争責任を認めたならば、ただちに全国の同志にこれを知らしめ、日本国内で一斉に決起して一挙に日本国内の共産主義革命を実施し、共産主義国家の樹立を図る手はずになっていました。そうした意図を知ってか知らずか、陛下はその一団の前で足をお止めになられました。そして「引揚者」と書いたブラカードの前で、深々とその一団に頭を下げられました。「長い間、遠い外国でいろいろ苦労して大変であっただろうと思うとき、私の胸は痛むだけでなく、このような戦争があったことに対し、深く苦しみをともにするものであります。
みなさんは外国において、いろいろと築き上げたものを全部失ってしまったことであるが、日本という国がある限り、再び戦争のない平和な国として新しい方向に進むことを希望しています。みなさんと共に手を携えて、新しい道を築き上げたいと思います。」陛下の長いお言葉でした。
そのときの陛下の御表情とお声は、まさに慈愛に満ちたものでした。はじめは眉に力をいれていたこの「引揚者」の一団は、陛下のお言葉を聞いているうちに、陛下の人格に引き入れられてしまいました。「引揚者」の一団の中から、ひとりが膝を動かしながら陛下に近づきました。そして、「天皇陛下さま。ありがとうございました。いまいただいたお言葉で、私の胸の中は晴れました。引揚げてきたときは、着の身着のままでした。外地で相当の財をなし、相当の生活をしておったのに、戦争に負けて帰ってみればまるで赤裸です。生活も最低のものになった。ああ戦争さえなかったら、こんなことにはならなかったのにと思ったことも何度もありました。そして天皇陛下さまを恨んだこともありました。しかし苦しんでいるのは、私だけではなかった。天皇陛下さまも苦しんでいらっしゃることが、いま、わかりました。今日からは決して世の中を呪いません。人を恨みません。天皇陛下さまと一緒に、私も頑張ります!」と、ここまでこの男が申した時、そのそばにいたシベリア帰りのひとりの青年が、ワーッと泣き伏したのです。「こんな筈じゃなかった。こんな筈じゃなかった。俺が間違えていた。俺が誤っておった」と泣きじゃくるのです。すると数十名のシベリア引揚者の集団のひとたちも、ほとんどが目に涙を浮かべながら、この青年の言葉に同意して泣いている。彼らを見ながら陛下は、おうなずきになられながら、慈愛をもって微笑みかけられました。それは、何も言うことのない、感動と感激の場面でした。

因通寺 御歌の刻まれた梵鐘
いよいよ陛下が御料車に乗り込まれようとしたとき、寮から見送りにきていた先ほどの孤児の子供達が、陛下のお洋服の端をしっかりと握り、「また来てね」と申しました。すると陛下は、この子をじっと見つめ、にっこりと微笑まれると「また来るよ。今度はお母さんと一緒にくるよ」と申されました。御料車に乗り込まれた陛下が、道をゆっくりと立ち去っていかれました。
そのお車の窓からは、陛下がいつまでも御手をお振りになっていました。宮中にお帰りになられた陛下は次の歌を詠まれました。
『みほとけの教へ まもりて すくすくと
生い育つべき 子らに幸あれ』
(御歌は因通寺の大梵鐘に鋳込まれています)
正義はその国々によって異なるのでしょう。私は少なくとも反日自虐教育によって日本に戦争を肯定する大義などないと思っていました。もちろん負の面もあります。しかし正義もあります。日本人でなければわからない情緒も事情もありました。そういうものを知ったうえで戦争犯罪というものを考え。靖国に詣でます。(何年も行っていませんが)地元の神社にも従軍碑があります。日清日露大東亜に地元から出征して人の名が連ねてあります。感謝です。日本には日本人の理屈があってよいではないですか外国人に理解できなくても。同様に理解できない日本人がいても仕方のないことです。考えは押し付けません。しかし私が大事にしていることも否定しないでほしいと思います。お互いに慰霊すればよいではないですか。顕彰というとちょっと強く感じてしまう人がいるでしょうね。慰霊顕彰という言葉が強く感じるとしたら、それこそが自虐教育の残渣かもしれません。
令和4年 敗戦の日に思う。
2022年08月15日
2年前の8月の記事を見なおしてみました。
2020年08月11日 近づく敗戦の日に思う。
2020年08月15日 令和2年 敗戦の日に想う
2020年08月29日 安倍総理辞任に想う
2年で安全保障面がどう変わったでしょうか。ウクライナにロシアが侵攻し現在進行形で戦争を目撃するとは。日本の排他的経済水域にChinaのミサイルが5発撃ちこまれました。それは懸念であってないだろうと思われていたことが現実に起こっていて日本は両国の次の標的になろうとは。戦後教育によって近代史から思考を遠ざけられている若い人たちにこの時期だから参考になる記事を書いておきたいと思います。

この厄介な極東アジアの太平洋に大陸の防波堤のように浮かぶ日本列島。地政学上問題がある位置にあるという自覚を先人は持っていて常にその懸念の払しょくに努めてきた事柄が近代史を形作っているといえます。過去記事とも重複する部分がありますが例によって長文になると思います。地政学上の位置を示す地図は再掲です。どう見てもロシアやチャイナのような専制主義国から見て邪魔な位置にあるのが日本です。
専制主義というのは民主主義と違って実質選挙があっても形式的なもので為政者が独裁的に国を動かすことができるという決定は早いが間違った方向に進んでも誰も止められないような仕組みのことです。
国際社会に翻弄利用される日本。道を誤らないためには歴史を知ること。「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」未来を予想するためには正しい歴史を知らなければなりません。自虐教科書やマスコミの知識だけでは誤った予想を立ててしまうということです。
2年前には思いもよらなかったこと。「ロシアのウクライナ侵攻」と「台湾有事は日本の有事」と言っていた安倍晋三元総理の死と同時に現実味を帯びてきた「台湾有事」これらの歴史的背景を自分なりにまとめます。ですがやはり最後は自分で調べてください。広遠で素人には手に負えませんから。
先ずはロシアからです。あくまで近代史でロシアといえば始めは「帝政ロシア」です。1721年から1917年までは王を戴くロシア帝国でした。最大時世界人口の1/10人類史上3番目に大きな領土を持つ国でした。Chinaの中華思想にしてもロシアの帝国主義にでも彼らにとっては輝かしい過去であり本気で復建させたいと思っている。ここが問題です。自分たちが一番なのです。帝政ロシアが滅んだ1917年といえば日露戦争から12年後の第一次世界大戦中です。戦争続きで困窮した民衆の中にルサンチマン思想が広がり2月革命、3月革命を経て10月革命でマルクス主義革命家レーニンが人民委員会議長となりロシア・ソヴィエト連邦社会主義共和国が成立します。1919年にはコミンテルン結成されます。コミンテルンとは共産主義インターナショナルCommunist Internationalの略。第三インターナショナルとも呼ばれます。共産主義、これが一つポイントですね。レーニンの死後スターリンがソビエト連邦共産党指導者となりますが共産主義の宿命か王家や貴族といった階級は廃止されましたが新たな独裁階級が生まれただけで国民が求めた平等は得られませんでした。真の共産主義は絶対的に誤らない絶対的指導者の下でしか成り立たない副作用の大きい夢の制度です。
帝政ロシア時代から強国の南下を恐れて日清(1894)日露(1904)を戦った日本に新たに抗赤化・防共という難題が加わってしまいます。日清日露に勝利したはずの日本は朝鮮半島を防共の砦とすることに失敗し満州に活路を求めますがロシアから近すぎたことChina大陸で欧米の理解を得られなかったことで孤立しました。これはベノナ文書(ヴェノナファイル)の公開で1930年-1940年代末にアメリカの政府/諜報/軍関係/民間組織などに数百人単位のソ連のスパイが入り込んで米国政府の政策や意思決定をソ連の意図通りに進める工作を行っていた間接侵略状態だったことが分かったことで日本側がどんなに和平を望んでも巻き込まれる運命にあったということを示しています。現代の人たちに問います。いま皆さんは目に見えること。報道されて聞こえてくる情報がどのような意図をもって誰かに流されているものである危険性をどれだけ意識して分析していますか。当時の日本人の中にも分かっていた人もいたと思いますが多くの為政者や国民は知らない間に巻き込まれていたのです。孫文や蒋介石という知日派の民主運動家となぜか戦うことになり事変だった日支関係が日中戦争と呼ばれ短期で解決するはずだった事変で欧米がヴェノナファイルの示すようにコミンテルンの戦略によってChinaを支援し、気が付いたら中国共産党が中華民国の蒋介石を台湾に追い出して戦勝国側になっていた。いや国際連盟が立ちあげ初期の常任理事国は中華民国(台湾)とソ連だったのに中華民国は追放されChinaが、ソ連崩壊後にロシアがその御地位についています。
皆さんは、こういったカラクリや国際社会というものがいかに一部の人間の意図で決定してしまうものか理解していますか。日本はいつも被害者です。それは日本にしたたかさが足らないのです。正直者が馬鹿をみるのは正しいことではありません。でもその馬鹿をみてしまう側にいつも日本はいるのです。正直とは言わないけれどもっとうまく立ち回れば違っていただろうということばかりなのです。現代でも、そしておそらくこれからも。だから気をつけなければなりません。目に見えていることだけが真実ではありません。

8月になると毎年、大東亜戦争と日本の歴史についての情報と反戦平和に名を借りた戦前日本の否定の記事や報道が双方から出てきます。これを両側から切り分けてみていかないと一方に流されます。私自身にもバイアスがかかっていると思って読んでください。
北ではアラスカはアメリカ圏、千島列島はロシア圏になっています。誰がいつ決めたのでしょうか。もともとアメリカにはアメリカ人はいませんでした。ロシアに及んでは100以上の多民族国家です。数万年単位の単一民族国家などまずないということです。どの時点まで遡って領土主張するのでしょうか。それは置いておいて。以前書いた記事のように国境という概念が生まれて以降。現在においても国後・択捉・歯舞・色丹がロシア領であったことは一度もありません。大東輪戦争当時ソ連は極東で「日ソ不可侵条約」ドイツとの間に「独ソ不可侵条約」を結んでいました。それは皆さんご存じでしょう。それを破棄して攻め込んできたことも。そのことについてテレビでも放送していましたので少し詳しく記しておきます。
前記事 半旗の「海の日」に書いた鹿屋基地から特攻した。西田中尉の言葉「負けたとしても、われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう。民族の誇りに」通り日本は有条件降伏を勝ち取ります。(断じて無条件降伏ではありません)いずれ「昭和天皇終戦の詔勅」で書きますがアメリカが本土上陸を諦め有条件降伏という講和の条件を提示(国体護持)したのは先人の命(死に方)と引き換えであることを忘れてはいけません。原爆を投下されても戦争継続でしたが1945年8月14日昭和天皇陛下が終戦の詔書に署名され15日、昭和天皇のご決裁によりを戦争休止の玉音放送を行います。陛下は開戦の決裁はされませんでしたが自らはどうなってもという覚悟で終戦の決裁はなされたのです。9月2日戦艦ミズーリ号で降伏調印します。その間8月6日に広島、9日に長崎に原子爆弾が投下され10万人ずつ無差別に殺されました。戦争法違反ですね。3月10日の東京大空襲の死者も10万人の一般市民が犠牲になりました。木造の家屋が良く燃えるように焼夷弾を開発したそうです。立派ですね。勝てば無差別殺人の戦争法違反も不問にされるのです。否ソ連の話をしていたのでした。

「日ソ不可侵条約」を結んでいたはずのソ連が条約を破棄して満州に攻め込んだのが8月9日です。11日に南樺太。南樺太や千島列島は日本領でしたから多くの島民が逃げまどいます。8月15日、日本軍は武装解除の命令が出て武器を放棄してもソ連軍は攻めてきます。アメリカも戦争法違反、ソ連も。でも今悪者になっているのは日本です。私には理解できません。
樺太の真岡郵便電信局事件を映画化した『樺太1945年夏 氷雪の門』はソ連の圧力に屈して上映中止が相次ぎました。日本人が実際に受けた被害も外国の指示で表現できない国って何ですか。表現の自由なんて言う言葉、日本人は恥ずかしくて使えないですね。ソ連の侵攻が止まったのが9月5日しかし60万人の日本人が捕虜となりシベリアで抑留、強制労働させられ5万5千人が亡くなります。人権蹂躙です。これに抗議しない日本人は人権を語る資格なしですね。一番長い人で10年超 数年から5年程度抑留は続いたのです。国際社会はそれを黙認しました。ウイグル・チベット・北朝鮮の拉致をみれば現代においても他の国は助けてくれないということはもうお判りでしょう。
樋口季一郎中将のことを書いておきましょう。ソ連スターリンは北海道の北半分。あわよくば北海道全体を手に入れようと思ったのです。マッカーサーの忠告も無視して。北海道占領を阻止したのは樋口季一郎中将の独断です。既に統帥権を失って一般人の扱いでしたが樋口中将は大本営にはお伺いを立てず、独断で千島列島を守っていた第91師団の堤師団長に「断乎反撃に転じソ連軍を撃滅すべし」と命じます。彼等は千島列島占守島をはじめ勇敢にこの自衛戦闘を闘います。日本軍は18日でソ連側も戦いをやめると予想しますが戦闘は継続され日本軍が600~1000人、ソ連軍が1567~3000人の死傷者を出す激戦となりました。最後は停戦協定によって武装解除となり降伏した日本兵やはりシベリア送りとなります。スターリンは北方4島の占領で妥協します。樋口季一郎中将が北海道を守ったのです。
樋口季一郎といへば、よく外交官の杉浦千畝がユダヤ人にビザを発給して命を救ったと美談になっていますが、ユダヤ人を差別せずに救ったのは日本の国策であり中心は軍人です。杉浦千畝が発行したビザでの入国者6千人、その2年前昭和13年、満州関東軍の特務機関の機関長だった樋口季一郎がユダヤ人難民の入国を許可した数は2万人。時の参謀長は東条英機。お分かりですか。日米開戦後も犬塚大佐らのユダヤ人保護工作は続きます。ナチスドイツが同盟国であっても、ドイツからの抗議があっても人権優先と突っぱねたのが日本軍人です。ドイツで開発したガス室を提供するという申し出を阻止したのが犬塚大佐。大戦中も「上海は楽園でした」という言葉を残した難民生活を経験したユダヤ人女性の逸話がありますが、その楽園の守護者も犬塚大佐でした。その元となるのは昭和13年12月の五相会議(近衛文麿首相・有田八郎外相・板垣征四郎陸相・米内光政海相・池田成彬蔵相兼商工相)で策定した猶太人対策要綱(ゆだやじんたいさくようこう)「猶太人ニ対シテハ他国人ト同様公正ニ取扱ヒ之ヲ特別ニ排斥スルカ如キ処置ニ出ツルコトナシ」(ユダヤ人を他国人同様差別してはならない)という八紘一宇の精神です。人権に対して堂々とものが言えた日本。今の日本はChinaや朝鮮の人権問題にダンマリです。
負けた日本のほうが人権先進国だったということが良くわかります。
南に行きます。前記のように且つての夢のような大国は、その時代の自分たちのことを真の姿だと思っています。それはお互い様だと思います。私も明治のころの日本が良かったなどと言っているのですから。しかし彼らは他国を巻き込んでそれを再現する再興するのだと本気で考え実行しようとします。そこにさらにファンタジーを加えてくるので困ってしまいます。北海道にも沖縄にも縄文人がいたはずですが、そんな太古の事を考えると収拾がつかなくなるので、ここ数百年間のことでいうと琉球王国という呼び方はなく琉球または琉球国です。王という存在はどこへ行ったのでしょうか。琉球王朝の尚氏は東京で華族になったのです。他の華族同様、現在はGHQのおかげで一般人です。その琉球を琉球王国と呼んで日本が侵略したと思わされている人がいます。前記のようにソ連崩壊後のロシアも中華民国からすり替わった共産主義のChinaも新しい国で明や清とは場所は同じでも違う国です。その国が我が北海道や沖縄を狙っているのです。
ウクライナもロシアと一緒の連邦だったことはありましたが今は独立して政治体制も違う国家でした。しかし端っこから狙われました。ロシア系住民の保護という名目で。日本も危ないのは端っこです。北海道の先住民アイヌはカムチャッカから渡ったロシアの先住民族であると公言する人がいます。明や清と冊封体制という交易のあった沖縄は元琉球王国で日本に奪われたのなので独立復帰させよう運動があります。マスコミや政治家が外国の宗教団体にコントロールされるように。我々もマインドを少しずつコントロールされていることに気付かなければなりません。そうやってわからないようにジワジワと思いこませてできれば武器を使わずに屈服させるのが孫子の兵法「戦わずして勝つ」です。経済でも食料でも安全保障でもあらゆる方面から仕掛けられています。詰将棋のように気づいたら武器では守れなくなって武器を使うまでもなく相手を自分の支配下に置く。それがベストの戦い方です。そういう意味ではロシアは焦ってしまいましたが、お隣の自称数千年の歴史の国はもっとしたたかです。一度口にしたら何十年何百年かけても絶対に達成するという意思をもって力を蓄えています。日本ももっとしたたかにならないと、それらの国と伍していけません。方法はともかく日本人、一人一人が歴史から学んで備えないといけないということです。賢者は歴史に学ぶのです。
安倍晋三元総理は晩年嘆いていたようです。自民党の中に保守の皮を被った非保守の政治家がたくさんいることを。そうなると排除しようがありません。安倍さんに出来ないのですから安倍さん亡き今、美しい日本を取り戻すことはできるのでしょうか。誇れる日本人はすべて足を引っ張られて表舞台から消え去り先人から託された民族の誇りも誰が守っていくのでしょうか。お盆の線香の前で心細く祖先に祈るばかりです。

政治の混乱は望ましくない
2022年08月13日

世界に類なき皇統万世一系
安倍晋三元総理がテロの犠牲になってから国民の関心を逸らそうという動きがある気がしてなりません。SNSにあげでも反対意見が圧倒的であって危ない気さえするのでブログに書いておきたいと思います。
宗教の問題についてはセンシティブな問題なので深堀は避けます。ただし、国家神道を新興宗教と同列に語るのは違和感があります。国家神道とは言わなくなりましたが神道の祭祀の長は天皇陛下だからです。天皇を戴く万世一系の世界最長の歴史を持つ国は、まごうことなく日本国であって皇統が断絶しない限り、これを超える国は現れることがないということが真実です。そう、逆説的には皇統を断絶させることができればその事実はやがて過去のものにすることができる。日本の残った唯一最大の誇りを消し去ることができるということです。
国民の関心をそらそうという動き、それは特定の新興宗教とその関連団体と政治家の関係を深く追及することで接点の大きさはともかく何らかの関係があることを誇大に問題視し突き上げようとする動きのことです。国会が開催されてもこの問題の追及に時間を割けば他が疎かになります。日本の政治はその繰り返しですがそんなことをやっている場合では本来ないのです。
様々な関心ごとがあるでしょう。一番多くの国民の関心は物価高や所得の問題。つまりお金なのだと思いますが、私の場合は安全保障全般です。軍事、食料、資源、経済、すべての安全を他国に依存している状態が最も危ないということが歴史上経験しているのになぜわからないのでしょうか、その問題は最も関心の高いお金に直結することがなぜわからずに枝葉の見える問題に目を奪われてしまうのでしょう。そうしている間に取り返しのつかない時間が過ぎてゆくのです。歴史は教えてくれていますよ。何らかの意図で目を逸らす動きが働いていることに気付かないと。同時に関心を持ってもよいです。せめてもう片側で起こっていることを忘れないでください。
今見えていることを少し掘り下げて考えてみましょう。ズブズブという言葉がはやっていますが、ズブズブとはなんですか表現が刺激的過ぎます。イメージが刷り込まれるという点では使う側には良いフレーズですね。
若い皆さんは韓流なんていう言葉でKoreaに親近感があると思いますが反日教育を受けていた私の世代には得体のしれない負い目のような感情があるのではないでしょうか。朝鮮人街で育った私は、埼玉に引っ越して反日教育を受けるようになってから何故か贖罪の意識を持ってしまっていました。韓国の半導体産業の立ち上がった時期によく訪問することがありましたが「彼らを助けることが自分の務め」のような意識がどこかにありました。刷り込まれていたのですね。「先人が悪いことしたんだからお返ししないと」なんて、今は歴史を自ら勉強してやっと平等の意識を持てるようになりました。
若い人はちょっと違う親近感があるのでしょう。しかし気を付けて欲しいのは韓国ではまだ公教育で反日教育を現在進行形で行っているということです。そんなものに惑わされる人ばかりではないので過度に警戒するのは良くないですが一面そういう現実があることも知識として知っておく必要があると思います。しかもその公教育で使われる史実が現実と異なるものが混ざっているのが厄介です。
脱線しました。今話題の新興宗教の事でしたね。世界中に広がっているこの宗教はキリスト教からの分派のように見えますが新興宗教の一つであり教義には触れませんが問題は日本が一番貢ぐ役割を負っているということです。日本には母の国として父の国に送金する役割があるというのは且て私が抱いていた得体のしれない負い目と無関係ではないと思います。そもそもキリスト教自体、人間は罪をもって生まれおちてくるという考えもありますから一生懸命それを償おうと真面目な人ほど考えてしまいますね。宗教の良い面もたくさんあるでしょうけれど悪い宗教といえるのは人の善意や恐怖の心を突いてくるものだと思います。その善意や恐怖心にお金が絡む。日本人が陥りやすいロジックなのでしょう。
韓国の話です。多くの皆さんは韓国を民主主義の国だと思っているでしょう。事実そうですが私のよく訪問していた1990年頃は日本語の歌を放送するのは禁止でした。民主化されて日が浅かったですから。
1987年の民主化運動によって大統領選挙が行われて盧泰愚大統領が選ばれるまで韓国は軍事独裁政権だったのです。民主主義の歴史は40年とまだ日が浅いのです。韓国に南北がありますが同じ民族で朝鮮です。その南北が戦争をしました。同じ民族が戦争をしてしかも現在は停戦中。まだ戦時下です。今では年一度のようですが北の攻撃を想定した訓練のサイレンが全土で鳴ります。日本にとっての防共の砦、赤化の匕首Koreaはまだ安定した政治状況とは言えません。隣に共産主義国家があるという点では気の毒な状況です。
そんな中、長く軍事政権であり。共産主義と対峙していた韓国、 懲役22年の判決を受けて収監中だった朴槿恵元大統領が恩赦で釈放されたのは良かったです。彼女のお父さん朴正煕元大統領は日本名を高木正雄という満州国陸軍軍官学校出身の日本エリート軍人。彼も大統領在任中に暗殺されてしまいます。
緊張の軍事政権には日本にはない諜報機関CIAを持っています。大韓民国中央情報部(KCIA)です。アメリカにもありますけど日本にはない。なぜでしょう。ある種平和ボケですが諜報機関は必要ないからです。実は今となっては必要ですけど国会で反対意見があって作れないっていうのは、これができると不都合が生じる議員でもいるのかと疑ってしまいますが必要だけど出来ないのです日本では。

70年安保 昔の学生は元気が良すぎた。
ここからどうやって宗教に繋がるのかっていうのは案外簡潔です。韓国は北朝鮮の共産主義と対峙しているわけですから当時の軍事政権は反共産主義・防共主義なわけです。国内で新興宗教を立ち上げた教祖の政治思想はわかりませんが、国内の政治家に取り入るのは反共を使うのが効果的だったわけです。朴正煕大統領政権は1963年-1979年。教祖は1968年の1月に反共主義政治団体「国際勝共連合」(勝共)を立ち上げます。3月にはすでに日本でも立ち上がっており名誉会長に笹川良一氏、顧問にも政財界のメンバーが入っている時点で思想信条は不明でも強力な保守団体としてKoreaと日本の超大物をバックに設立されたわけです。
1960年代後半といえば日本では60年安保、70年安保の学生運動全盛期。左翼系に加え新左翼系が派生。左傾思想は共産主義とは相性が良いわけですが、この時代は全国の大学で学生運動の嵐が吹いたわけです。勝共連合には「世界思想」「世界日報」などの機関紙があって、現在問題になっている多くの政治家が勝共連合から派生した関連団体や機関誌のイベントやインタビューなどに応えたもので霊感商法に直接加担したと例はそう多くはないのです。テレビでやっていましたが「ワシントン・タイムズ」という当該宗教団体系の保守系新聞があって一定数購読者があるそうです。なかなか絶妙なネーミングですよね。ここの取材は米国人アメリカ人なら受けるでしょう。本や記事を見せられてこのメディアのインタビューですと言われたら、私でも受けてしまいそうです。
もとはといえば政治利用が目的か教祖が実際に反共産主義だったのかは確認しようがないですが、保守政治との親和性が反共という点で一致しており。団体の規模からいっても政治家を利用することが可能だったのでしょう。自民党に関与が多いのは保守政党ですから当然ですし、その他保守系の政治家にはお互いにひきつけあうものがあったでしょう。(団体側の目的は知る由もないですが)
我々はこのような背景があって政治と主に国際勝共連合が結びついたのであって教祖が発起人であったとしても宗教と同一視しては本質を見誤る。或いはミスリードを受ける可能性があるということに気付くべきです。日本は自由の広い国だと思います。フランスには反セクト法があり日本で認められているいくつかの宗教団体は監視対象になっていますし程度の差はあるものの共産党を非合法化している国は、アメリカ、スペイン、韓国など約40カ国近くあると言われています。今回のことを過大に報じ国会が本来するべき議論ができないほど騒ぐと利するのは誰かということを考えなければなりません。
革命思想とは多数決では実現できない体制を力で実現しようとするものです。正しいと信ずる思いは理解しますがそれを実現するためには暴力をも肯定してしまう危険性があります。安倍晋三元総理の負の部分を誇大に報じることで氏の受けた様々な直間的暴力が肯定されるようでは革命思想に染まっていると言わざるを得ません。
半旗の「海の日」
2022年07月18日

7月の第3月曜日 本日18日は海の日。国民の祝日に関する法律では「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」となっています。
しかし、我が家は半旗掲揚。一つは安倍晋三元首相への哀悼の意を表すること。もう一つは三浦春馬氏のご命日だからです。
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2020年7月19日·Twitterに私は書きました。
永遠のゼロで「特攻は自爆テロではない」と友人を諭すシーンに感動しました。貴方が演じてくれたことはとても嬉しかった。時を戻せるなら、空間も移動できるなら一日時間を戻して貴方の肩を抱いてあげたい。「大丈夫だよ」って。
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映画の脚本のセリフだったのかもしれませんが「よくぞ言ってくれました」と何十年ぶりかで行った映画館で叫びそうになりました。
純粋でナイーブすぎる感受性は時に危ない。自分を大切にしてほしかった。一つ山を越えたら違う景色があったろうに。残念でなりません。
6,852の島から成る海洋国家日本。最近対馬がKorea領という発言があるようですが、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱による国生みの順は淡路島・四国・隠岐島・九州、壱岐島・対島・佐渡島・・・本州。です。対馬がKoreaだったら我々全部Korea人です。この先人が遺した大八洲、我々は守れますかね。それこそたかが80年前に若者が千人以上最新兵器だった飛行機で突入した意味を知りましょう。
そんなことやって勝てると思ってやったのではありません。戦争という狂気に惑わされたのでもありません。
「永遠のゼロ」はゼロ式戦闘機(皇紀2600のゼロの説もあります。皇紀2700には生きていられるかな)だから海軍の特攻機です。映画では宮部少尉は52型での出撃が決まっていたのに部下の大石が乗機予定の21型に替えてもらいます。結果、大石に後を託すわけです。
ここからは実話です。陸海軍双方の特攻基地が九州各地にありました。海軍の鹿屋基地から出撃した西田中尉の言葉に私は特攻の神髄をみます。また別の時にも書きますが19歳の彼は決死の出撃直前語ります。
「学鷲(学徒)は一応インテリです。そう簡単に勝てるなどとは思っていません。しかし負けたとしても、そのあとはどうなるのです。おわかりでしょう。われわれの生命は講和の条件にも、その後の日本人の運命にもつながっていますよ。そう。民族の誇りに。。。」
日本の若者が沖縄にて命がけで効果の低い特攻を行えば敵国はこのまま戦争を継続すると自国民の犠牲も増える。命を惜しまない心を見せれば相手の戦意を挫き有利な条件で負けることができる。そしてそのような歴史を残せば後世の日本人の誇りとして語り継がれる。そう信じたのですよ。その期待に我々は応えられますか。私は立場違いですがウクライナの若者に「さっさと白旗上げて戦争をやめたほうが良い」とは言えません。
民族の誇りを失わせようとする教育や政治に注意したいものです。
「日本をとりもどす」「美しい国へ」を掲げた安倍晋三元総理も同じ想いだったと信じます。そんなわけで本日我が家は半旗掲揚です。
追悼 安倍晋三元総理
2022年07月09日

youtube 安倍晋三チャンネルより
昨日の安倍晋三元総理の事件、大変ショックでした。オシドリ妻の昭恵さんにとって昨年の愛犬ロイ君に続いてかけがえのないパートナーであり夫(つま)を失った御心痛は察するに余りあるものがあり衷心より哀悼の意を表します。会社のホームページに政治的なメッセージを書くのはどうかという意見もありますが、このブログに関しては私が遺した私文書としての側面もありますのでそうとっていただけると幸いです。
2020年08月29日に「安倍総理辞任に想う」という記事をあげました。潰瘍性大腸炎という難病を持ちながら総理大臣という要職を続けられたということから勇気をいただいていたことと、「日本を取り戻す」という意気込みを表明されていたことで支持していたからです。残念ながら目に見える結果を残すことはできませんでした。私も零細企業ですが社長になれば思い通りに事が運ぶかと考えていたところが現実は全く違いました。外交を含む国政を担うこととは比較できませんが、一国のリーダーという重みと果たせぬ責務に大変な御苦労があったものと思います。
今回の事件で私は改めて深い闇の中にいるような漠然とした不安に襲われました。2020年08月29日にも掲載した中川昭一元財務大臣の事が真っ先に頭に浮かんだのです。自由民主党保守の家系に生まれ若くして政治家として大成した二人でしたが共に道半ばで無念の死を遂げることとなりました。尊敬を持って敢えて彼らと呼ばせていただきますが彼らが戦っているものが何だったかについて思うところを少し書いて安倍晋三元総理を偲んでみたいと思います。
中川昭一氏は将来日本のリーダーになるべき人でした。彼の死は日本の将来をも暗いものにする予感がありました。初めに彼を意識したのは生前の人権擁護法案の成立に反対する行動に対してでした。その時の発言。この法案が通れば自分を含む多くの国会議員の「政治生命が終わる」という趣旨でした。大げさな冗談と当時の私は思っていたのですが彼は2009年2月にローマG7財務大臣中央銀行総裁会議での酩酊会見がもとで辞任します。6人で飲んだ1本のワインで酩酊。各種の薬を飲んでいたという話もあります。(医者には言えませんが私も色々な薬とお酒を飲んだことがありますが千鳥足まではなっても呂律が回らなくなって発言も行為も記憶から飛ぶほどにはなりません)彼は秋の選挙で落選後、自宅で不審死します。死因は今でもはっきりしません。(諸説あり)彼の父、中川一郎代議士は57歳で自死しています。
(中川昭一元財務相56歳。安倍晋三元総理67歳。父、安倍晋太郎元外相67歳で病死。)
中川昭一氏は日本の国益第一主義の保守色の強い政治家でした。安倍晋三氏はもう少しマイルドな感じを受けます。1997年2月「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が設立され会長に中川昭一氏、事務局長に安倍晋三氏が就任します。当時、慰安婦や強制連行の記述が日本の教科書でありながらあまりに自虐的であるということが問題になっていました。私もこの問題には関心がありました。以前にも書きましたが私は川崎市の桜本という朝鮮出身者が非常に多い土地の生まれです。実体験や出征経験のある祖父の話と自分が受ける教育のギャップに違和感をもっていました。自分で受けた教育はともかく子供ができて意識が変わります。本当の事。事実と眞實を教えなければならないという意識が生まれ色々調べて社会の仕組みや矛盾に気づきます。
安倍、中川両氏も敵の多い政治家でした。外国ばかりではなく国内にこそ敵がいるのです。最も大きな敵はマスコミと教育界です。これらと戦ったことがこのような結果になったのではないかと私は考えています。NHK番組改変問題=2001年1月放送の日本軍戦時性暴力を扱った内容に当時の安倍晋三幹事長代理と中川昭一経済産業相が圧力を掛けたのではないかと問題になり追及されました。彼らは反マスコミ、反日教組的政治家として捉えられていきます。某新聞社の「安倍の葬式はうちでだす」との発言のうわさがありました。少なくとも当該新聞社の元主筆の故人は政治評論家の故三宅久之氏に「安倍叩きは社是」と言ったということは記録に残っています。個人の発言ですが。
なぜこんなことを書いているかというとマスコミの力は核に勝ると、どこかの党首が最近使う文句ですがマスコミが繰り返す印象というのは「言葉の力」という人間の潜在意識に刻印を打つ力を持っているのです。繰り返しある方向の報道を続ければ余程気を付けていないと影響を受けます。私から見ると安倍晋三元総理は本心を抑えて政治活動をしていたと思います。しかし違った方向の印象を多くの国民は持っていたのではなでしょうか。多くの人にある印象を与え続ければ、そのうちの一部が過激な行動を起こすかもしれません。事実に基づかなくてもバイアスを掛けることがマスコミにはできるのです。その思想を一定の方向に導く力の本源が何かは確証がありませんが事実関係を並べて正確な判断の両方向性を持った報道がされているかといえばそうではありません。
嘗ては保守でありマスコミに「倒すべき相手」とされていた自民党も玉石混淆(ぎょくせきこんこう)状態であると一部の保守政治家が嘆いています。安倍晋三氏(1954年生)と中川昭一氏(1953年生)は同志でした。中川昭一が遺志を託した安倍晋三までがいなくなって「おまえら日本を頼んだぞ」という言葉が非常にむなしく私の身に染みます。中川昭一氏の葬儀で安倍晋三氏は弔辞を述べています。一部を記します。
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弔辞
故中川昭一元自由民主党政調会長の御魂に見える為、ここに哀悼の誠を捧げます。
(略)先般の総選挙直後御目にかかった時は流石にお疲れの様子でしたが、2週間程前お電話で話した際は非常に元気で「安倍ちゃん、保守再生の為に頑張ろうよ」と語りかけてくれました。その矢先の突然の訃報に私は愕然とし、言葉を失いました。
(略)「このままでは日本が危ない」という危機感の中で、教科書問題にも取り組みました。中学校の歴史教科書全てに従軍慰安婦・強制連行の記述が載ることになり、「このような自虐的な歴史観を何とか正し、子供達が日本に、我が国に誇りを持てる教育に変えたい」と、その一心でした。当時の政治状況・マスコミの報道ぶりから考えれば圧倒的に不利な情勢であり、まさに多勢に無勢でした。
その中で私達は「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」を立ち上げ、メンバーの総意で昭一さんに会長をお願いしました。批判の矢面に立たされる危険がある中、俗に言えば票にも繋がらない、政治キャリアにはマイナスかもしれない約束を、昭一さんは「俺がやらねば」という気持ちで引き受けてくれました。拉致問題も全力でしたね。憲法改正問題も同様でした。
(略)東シナ海の油田問題で、貴方の毅然とした外交姿勢は資源外交の重要性・国益を守るとは何なのか、ということを私達に身をもって示してくれました。
安倍内閣が誕生した時、私は迷わず貴方に政調会長就任をお願いしました。平成19年1月通常国会で昭一さんは代表質問の壇上に立ちました。その冒頭、昭一さんは張りのある声でこう切り出しました。「国家の骨格を成すものは、憲法・安全保障・教育であります」結びで「アインシュタインが称賛した日本人の謙虚・質素などの美徳を保ちつつ、誇りと自信を持った国民によって、見える部分、見えない部分も共に、真に「美しい国日本」が実現されるよう全力を挙げて努力することをお誓いします。」と述べられました。
まだまだ国家のために一緒に戦ってほしかった。私たちは貴方を必要としていました。こんなことを申し上げていると、あの魅力的で誰をも虜にする、はにかんだ笑顔で「そんなに褒めるなよ安倍ちゃん」という昭一さんの声が聴こえてくるようです。国家の行く末、残されたご家族、昭一さんにとって心残りだと思います。そして私たちは、あなたが目指した誇りある日本をつくるため、保守再生に向けて全力で取り組むことをお約束し。弔辞とさせていただきます。昭一さん、さようなら。安らかにお眠りください。
友人代表 衆議院議員 安倍晋三
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在りし日の盟友 日本を……
安倍晋三さん。悔しかったでしょう。拉致問題も解決できなかった。領土問題も美しい日本を取り戻すことも、自民党最大派閥とはいってもまさに玉石混淆。何とかしなければというあなたの思いは感じていました。前記の弔辞。昭一さんのところを晋三さんと言い換えれば全くあなたに捧げる言葉になるではないですか。
社員20名に満たない零細のトップの私でさえ思い通りにならず力不足に悩む日々です。
今の心を失いつつある日本人のトップになって国を動かすことの難しさ。一時は、あなたの行動を物足りなく思ったこともありましたが今ではわかります。貴方も自分の力不足を感じておられたことそして何より憂国と無念の想いを。
#安倍さんありがとう
プロフィール
代表取締役社長:本間 剛1964年12月生まれ
東京電子専門学校
メディカルエレクトロニクス科卒
趣味 : 読書/仕事
座右の銘 : 吾以外皆吾師カテゴリー
- a) 会社や仕事について想う (17)
- b) 人生/社会観(若人へ) (59)
- c) 健康観(カウントダウン) (7)
- d) 体験/プライベート (28)
- e)日本神話 古事記 やさしい解説 (28)
- f)日清日露大東亜 (9)
- 社長在宅日記 (22)
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