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令和2年 敗戦の日に想う
2020年08月15日

今年の8月15日は75回目の敗戦の日です。テレビ報道で私の住む熊谷が14日に最後の空襲を受け266人が亡くなったと紹介されていました。「日本の一番長い日」のように熊谷が空襲を受けた時点で既にポツダム宣言受諾が決定しており、被災された方の無念を思い心が痛みます。
「戦争は2度と起こしてはいけない。」当たり前です。
戦争は誰も幸にしません。全家族を不幸にする争を文明人が許せるはずがありません。私たちはそう教えられ、自らもそう考えます。しかし、理不尽な暴力に対してどう対処してよいのかも学ばなりません。
別考でも書いていますように、日本が過去の戦争にどのようにして巻き込まれたのか、何故侵攻したのかを学ばずして自虐史観ばかり刷り込んでいけば現在進行形のウイグル、チベット、香港、台湾、沖縄その他の紛争地同様、世界から見放されて強者に跪くしか術はなくなるでしょう。
少なくとも私たちのお盆で帰ってきている先祖の御霊は、その道に坑(あらが)ったのです。
その後祖先の全てを否定して次の紛争の時に甘んじて侵攻を受け入れるというのは、少なくとも私にはできません。他国は絶対に助けてくれません。自国の利益にならないことはしません。見返りを求めない正義の味方などいないのです。いるとしたら少なくとも旧日本人にはそのような気持ちもあったかもしれません。先に挙げた国や地域の人々の現状を見てください。
話せばわかる世界ではないこと、少しずつ分かってきたでしょう。外交力も経済力も低下している日本、話し合いでは解決できない侵攻が既に始まっています。抗わなければ飲み込まれるのです。特に日本を助けることに外国がメリットを見出さなければ見て見ぬふりをされるのです。これが現実なのです。米国人が日本のためになぜ血を流さなければならないのですか。日本人が後方で支援して米国人を前線に送って日本のために防御させるなぞ米国の家族が許しません。日本が守り切れなかったとき米国の国益のために彼らは戦うのです。
自国が血を流してでも守るのか、戦わずして白旗を上げるのか。日本人も考えておかなければならない時期に来ています。
大東亜戦争敗戦75年。一番いけないことは戦争に負けたこと。戦争を起こさなければ負けもなかったのですが、ハルノートを受け入れていたらどうなっていたか。今の亜細亜がこの形で存在したでしょうか、日本はどうなっていたでしょうか。それを分析せずに、一番大切な今の国際状況から日本の将来を予見せずに、コロナで人が死ぬことで大騒ぎしているのが大変不謹慎ですが可笑しく思えてしまいます。
そんなことよりもっと大きな人権蹂躙や政治的殺人が起こっているのにそれを知っている人たち、政治家やマスコミが無視し続けるのは何故でしょう。ジョヨボヨ王の予言の「白い衣をつけた黄色い人」の力が今の日本人にはありません、いつか日本人の正義感に再び火が付くことを願います。

近づく敗戦の日に思う。
2020年08月11日
8月15日が迫ってくると年齢のせいでしょうか涙もろくなります。地方にもよりますが、お盆と敗戦の日が重なるのは因縁でしょうか。私はいつも思うのです。大東亜戦争を始めたのも敗れたのも当時の為政者に原因がありますが、それに至った日本の実態を知る人があまりにも少ないと。
現在、ここ数百年間の国際的な近代化の中で日本が、世界が、どのように動いたために我が国が大東亜戦争に踏み切らなければならなかったか正確に言いえる人はどのくらいいるでしょうか。それを知るのは書物によるしかありませんが人はそれぞれの立ち位置によって書物を選びます。歴史学者と呼ばれる人は学問として研究しているはずですが、同じ書物を読んでも認知バイアスによって感じかたは様々です。
この認知バイアスは時々の為政者も持っていたはずです。歴史は認知バイアスによって形成されたと言っても良いのです。かくいう私も普通の会社員でありますが以前告白しましたように中高生の頃は左傾偏向教育を受けて育ったので、かなりの左思考でした。その反動で今は強い保守意識を持っています。
論語に『子曰わく、過ちて改めざる、是を過ちと謂う』『過ちては則ち改むるに憚ること勿れ』とありますが、過ちとは何か改める方向は何処か決めるのも自身の価値観ということになります。この点も認知バイアスを無視できません。せめて自分には何らかのバイアスがかかっていると自覚して悔い改める必要があります。私のように一瞬で真左から真ん中に戻ることもできるのです。

仕事柄、計測器には校正という工業規格に準拠する誤差を調整しなければならない決まりがあります。これを行わないと誤差が蓄積していき計測結果の正確性が担保できません。基準器にてどれだけ誤差が出ているかを判定し調整し校正証明を行います。
機械なら基準器に合わせればよいのですが人間の思考はどうでしょう。校正して一律に調整するというのは何だか怖いですが、その基準器が間違っていたらどうなるか。基準器が人間なのですから誰が調整してくれるのですか。我々は為政者を選ぶとき余程このことに注意しないと大変なことになります。
ちなみに私の校正器は「広く社会の公益にかなうこと」「我欲から出た発想ではないこと」の2点です。

75年前の敗戦も79年前の開戦も長い歴史の流れの中で為政者が決めたことであり背景には国際情勢に翻弄される近代国家になりたての黄色人種国家日本の世論があった訳です。今は人種差別がいけないことは当然ですが当時、人種差別はあって当たり前の時代でした。これに異論を唱える者こそ異端者だったのです。時代で価値観は変わります。当時の人を責める権利は現代人にはないのです。
様々な偏見と認知バイアスによる人間の思惑が地球のプレートのように動き、蓄積した歪みは大地震という形で解放されます。歪みの蓄積が大きければ戦争になりますが、歪みが小さいうちに開放していけば小さな地震(紛争)程度で修正されます。ただしプレートは動いていますから世の中の状況は知らず知らずのうちに変わっていきます。
現在の戦争は歪みを大きくためて敵基地を攻撃し兵隊さんを運んで白兵戦を行うものではありません。政治や経済、マスコミを侵食しソフトパワーで相手を屈服させることで歪みを解消し、気づいてみたら陸海の地図の色が変わっているというものです。そういう意味では今はすでに戦時中なのです。
昨日、香港の民主活動家 周庭氏が逮捕されました。大変お気の毒ですがChinaの内政問題なので口出しできません。そもそも未だにアヘン戦争やアロー号戦争などで欧米がChinaに租借地を持っていたことが正当化されるのは何故でしょう。日本がこれをやっていたら絶対に許されないのに。
香港はChinaに返還され条件に50年間の一国二制度が入っていたのです。強引な感じは否めませんが、いずれChinaの体制に組込まれる運命でした。欧米とChinaの間で翻弄された地域。台湾も否、日本だってまた大国に翻弄されるコマになる可能性が大きいのです。
大東亜戦争前と何ら変わっていません。大国の間に揺れる日本乙女。当時より深刻なのは政治も経済もマスコミも教育もどちらの大国に対しても声を上げられないのは何故か。特にChinaに対して行動を起こすことはできません。それだけ各分野が侵食されているのです。そういう意味で当時より厳しい状況なのです。自国を守ることを他国に依存したら、他国の言うことに従わなければならない。経済を握られて教育と言論に制限をかけられたら反論さえできないのです。
大東亜戦争で戦死した将兵の7割以上が戦闘ではなく飢えや病気で亡くなったこと。沖縄や広島、長崎、東京をはじめ日本中で無辜の女性や子供たち一般市民が何十万人も殺されたこと。このことで誰かを責めるのではなく、この犠牲の上に今の我々の生活があるのだと考えましょう。私たちはこの尊い命と引き換えに何を学んだのでしょう。日本は独立を保つために戦いました。おかげさまで何とか形だけ独立を保っています。しかし命を懸けて独立を護ることが今の日本人にできるでしょうか。できなければ日本列島は波に翻弄され流れ着く小舟と同じです。
先人が守った自由と独立。現代の日本人は、その礎の上に立っているのです。75年前の戦争で犠牲になった数百万人の日本人が様々な思いで支えてくださっている、私たちもその想いを引き継ぐのだということを考える夏にしたいものです。
追悼 横田 滋 様
2020年06月14日
ここでしか発言できない私。この記事が会社のブログに載せることが相応しいのかはご容赦いただきたい。
いつかこの日が来るとは思っていたが6月5日に横田めぐみさんの父、滋さんが亡くなった。
心よりご冥福をお祈りします。全く無縁の身だが申し訳ない気持ちになるのはなぜだろうか。
横田めぐみさんと私は同じ歳、中学一年生の部活帰りに北朝鮮によって拉致された。
昭和52年(1977年)11月15日の事だ。
他にも拉致被害者は多く存在するが当時13歳の少女は他の被害者の証言から同じように袋に入れられて小型船で異国に運ばれ、2度と肉親に逢えぬ身となった。
13歳の自分が同じ状況だったら、どれほどの恐怖と絶望に陥るか。想像するだけで恐ろしい。そして申し訳ない。
当時日本国内では単なる行方不明の扱いだった。必死に探しても見つかるはずはない。北朝鮮に拉致されていたのだから。

拉致の可能性を初めてスクープしたのは昭和53年(1978年)の産経新聞だ。 この年は田口八重子さん地村さん夫妻、蓮池さん夫妻、増本恵子さん、曽我ひとみさん、他が拉致された年でもある。
産経の記事は日本海で男女が相次いで失踪する事件を報道したものだ。めぐみさんの拉致から1年しかたっていない。お母さんの早紀江さんが新聞社に問い合わせるものの少女単独の失踪は条件に合わないと言われてしまう。実際には拉致されていたのだが世間的に見過ごされてしまったのだ。
昭和55年(1980年)には同じく産経新聞が外国諜報機関関与の疑いとして北朝鮮を意識した報道をする。昭和62年(1987年)には大韓航空機爆破事件が起こり金賢姫は日本の偽造パスポートを用い、教育を受けたのは日本から拉致された李恩恵(田口八重子さんといわれている)だと証言している。
平成9年(1997年)同じく産経新聞が横田めぐみさんの拉致の記事を報道する。この時点で拉致から20年。拉致を疑っていたご家族の心中はいかばかりだったか。20年前に予想していた通りだったのだ。拉致被害者家族連絡会が発足し平成14年(2002年)首脳会談にて北朝鮮は日本人拉致を認めた。
この間の出来事を私はテレビでリアルタイムにみていた。多くのジャーナリストや政治家は、国家が他国民を拉致するはずがないと言っていた。調査も追及もしなかった。私を含め世の中も所詮他人事だった。私も今は娘がいる。同じ境遇にならなければ想像できないようでは人間ではない。恥ずかしながら自分の娘が、めぐみさんと同じ境遇だったらどうだろうと思うと、ご家族の戦いの40年はあまりに長い、しかも未だ続行中ある。

記者会見で息子さんが言った。「安倍政権が問題なのではなく、40年以上も何もしてこなかった政治家や『北朝鮮が拉致なんかしているはずない』と言ってきたメディアがあったから安倍政権が苦しんでいる」「安倍首相は動いてくださっている。何もやっていない方が政権批判するのは卑怯(ひきょう)だ。的を射ていない発言をするのは、やめてほしい」という言葉。安倍首相を攻める気持ちがあった私も反省することにした。
他国でこんな状況が起きたらどうだとよく言わる。
アメリカは本土で自国民が他国の侵入者に拉致され他事がわかったら「遺憾です」で済ませるはずがない。一人の命は地球より重いと言ってテロリストを釈放した政治家が日本にいた。本当に命が地球より重いなら。殺人よりも残酷なこの拉致問題に対して「遺憾です」とは何なのか。
他国は見ている。日本国は、日本国民は何をしても「遺憾です」で済ませるのだと。そんな人に国民の命と領土を預けたくはない。
幕末の西郷南洲のように命を捨てる覚悟で訪朝する政治家はいないのか。死んでもいいじゃないか。実を結ばなくても殺されても国内で負け惜しみを言っているより立派だ。個人的な意見だが、そんな政治家が一人くらい出てきてもよさそうなものだが、日本人は情けなくなったものだ。政治が機能しない以上せめて国民の総意は拉致被害者奪還で一致したいものだ。
藤井一中尉のこと(4)
2020年05月28日
今日、5月28日は藤井一中尉の御命日です。75年が経った今では「天国で家族に再開した日」と言いましょうか。今年は春の彼岸に中尉と御一家の墓参を果たせました。まさか新型コロナの影響がここまで大きくなるとは思いませんでしたが、日本は英霊に守られているということを私は信じています。一人でも多くの人に知ってもらいたいと思います。後の日本のことを頼んだぞと言い残して散華された人たちのことを。
事はそんなに単純ではありません。特攻隊の真実を知っている人はごくわずか、私も知っているなどとは恥ずかしくて言えませんが、少なくとも私の知る限りでは悲惨な話です。美談として語られる多くは特攻に行かせた側の伝えた話が元になっており、行かされた側の話は理不尽極まりない体験ものが多いです。
まともに飛べない(飛行経験の乏しい)少年兵にまともに飛ぶことができない機(特攻の行われた戦争末期はまともな飛行機が少なかった)をあてがい「とにかく死んで来い」という。少年は純粋な気持ちから乗せられて死に逝く、学徒出身者は理不尽と知りながら逝く、消耗品の扱い。

急角度で船に当たることの難しさ(大変な技術だが殆ど初心者しかいないという現実)堅い船に軽い飛行機が当たるダメージの少なさ、空母を沈めるのは無理。駆逐艦や輸送船がターゲット、英米の技術によりVT信管つきの砲弾が開発される。当たらなくても飛行機の近くで砲弾が破裂してダメージを受ける。船までたどり着けない。そんなことをわかっていてとにかく死に行かせる。
藤井中尉は耐えられなかった。妻子がありながら、教官の身でありながら志願する。当然不受理。何度志願しても不受理。それを知った妻と毎夜の口論。ついに妻は娘を連れ心中してしまう。後顧の憂いなく夫が逝けるように。
報道統制で、この話は伏せられた。陸軍も中尉の志願を受け入れた。昭和20年5月28日、操縦士ではない中尉に与えられたのは、二式複座戦闘機「屠龍」通信士として小川彰少尉とともに知覧より出撃。

5月28日朝7時頃、2機の特攻機がドレクスラーとロウリーに突入。1機目は戦闘哨戒任務に当った機の攻撃で撃墜。2機目は突入に失敗しロウリーとドレクスラーの間に墜落するかに見えたが機は次の瞬間にドレクスラーの真正面方向から突入、艦後部の蒸気パイプを破壊した。
ドレクスラーは動力が全停止し、ガソリンによる大きな火災が発生するも砲撃を続け、特攻機3機を撃墜するが艦内の乗員は閉じ込められ、外に出ていた何名かの乗員は衝撃で海中に放り出された。
つづけて別の特攻機が炎上するドレクスラーの上部構造物に突入。ドレクスラーは2機目の突入後、1分に満たない時間で船尾より沈没。乗員158名死亡52名が負傷。突入した特攻機が双発機であったとの生存者の証言あり(ドレクスラー生存者レユニオン協会とのことだがソースが見つからない) この機は「第45振武隊」二式複座戦闘機「屠龍」と見られている。
当日の特攻に参加した隊は別表の通り。私は英霊の皆さん力を合わせて戦った結果だと思いますし、藤井中尉も武勲をたて、お土産として家族に持って逝ったと信じます。
私が毎日通勤で通る道は、昭和19年12月14日、藤井中尉の妻、フクさん・千恵子ちゃん・一子ちゃんが横切った国道140号線、この辺りを横切ったのか、下宿先から直線で2里(8km)冬至の近い赤城おろしの吹きすさぶ暗い夜道を子供連れで何時間かけて歩いたのかと思わぬ日はありません。翌年5月28日、家族みんなが逢えたのでしょう。藤井中尉が約束通り手柄をもって。第四十五振武隊(快心隊は正式に呼ばれた隊名ではありません)
米の死者も158名、全員にかけがえのない家族がいたはず。それが戦争、2度と繰り返してはなりません。藤井中尉が言っています。「後の日本のことを頼んだぞ」と。戦争に命を懸けられない日本人、屈するしかないのが現状。日支事変では自重を重ね蜂起せざるを得なくなった。政府は今、遺憾という間違ったメッセージを発しつづけています。戦後75年、実は既に戦時序盤です。後を託された我々が国の防衛を真剣に考えるべき時。政治家よ、「任を放棄するな。国難から目を逸らすな。」という気持ちの一日でした。

「明朗と軽薄」 感染禍の日本人道徳を考える
2020年04月12日
日本人にとって希望となるはずだった西暦2020年(皇紀2680年)は、不幸にも現代日本人が経験したことない大禍の年となってしまった。世界中で現在進行しているこの武漢ウィルスの終息や影響については誰も明確にすることは不可能である。ある予想によっては大変厳しい推移と結果をもたらすとされており、そうなった場合は現代日本人が精神的、肉体的に耐えうるのかと危惧するところである。
在宅勤務で、或いは外出自粛で時間は持て余しておられると思うので、少し長い記事を上げてみたいと思う。
というのも、
・感染対策のための自粛要請が効かない日本人について
・社会の苦境の原因を他者に押し付ける気満々の日本人について
憂慮するからである。今回の問題だけでなく今後も国難を乗り越える国民を残さなければならないからだ。
前者については、慶応大学病院の研修医が40名の会合を開き濃厚接触の上22名の陽性者を出したことをはじめとして、夜間に営業して集う場を提供する者、自分の理屈で行動し罹患する者、地方に移動して感染を拡大させる者が後を絶たない。前記事でも書いたように現代の日本(今の社会インフラ)に明治人が統治、生活していれば日本内の感染はここまで広がらなかったと確信する。封建的な社会ではなくてもだ。
日本神話の最終記事は「天照大神の天の岩屋戸籠り」の段(くだり)であったが現在の状況がまさにこれである。ここを神代の時代にどう乗り切ったのかは、ごく短く言うと 『神々が宴をひらいて天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が裸踊りをして盛り上げて何かあったのかと岩屋戸を開いた大御神を天手力男神(あめのたじからおのかみ)が引っ張り出して結界を張ってお隠れになれないようにした』ということなのだ。
暗く様々な禍(わざわい)が天上にも地上にも表れていた状態でも明るい日本の神々、今の日本人にもそういうところがある。大災害の現場でも外国人が意外に思う日本人の笑顔が見受けられる。これは良い心持を引き継いるというべきなのだが大きな違いがある。それは思金神(おもいかねのかみ)の不在だ。思金神は神々の中でも叡智というべきご存在。冒頭に書いた慶応大学病院の研修医がどのような気持ちであのような行いにしたのか、なぜ今でも居酒屋の営業時間に何とか飲みに行こうとする人がいるのか、確かに天の岩屋戸籠りを明るく切り抜けたことからも明るい気持ちや希望を持つことは特に日本人ならどんな場面でも必要である。特攻機に乗り込む前に、おどけた英霊の写真を見ると心が痛むが、そんな場面でも笑って手を振って人が見えないところで涙した者がたくさんいたのだ。知恵を持った明るさ、知恵を持った行動、言い換えれば徳を持った行動。現在日本人には道徳、人徳が欠けているのである。
二番目の社会の苦境を他者に押し付ける気満々という筆頭はマスコミだろう。彼らは常々 今の政権には批判的である、しかしメディアしかもマスメディアというからには最も情報を集めている立場なのではないか。政権が独自の方針を示せば他国と同じようにしろと言い。日本の現状に即した対応をせざるを得ないことを知りながら、対応が遅いとか規制が甘いとか、なぜ責めることしか言わないのか。彼らは情報を集め分析し発信する力まで持っている。戦前はそれで戦争を誘導した実績まである。なぜ今、自らの責任において日本の現状では緊急事態宣言が憲法の制約から強制力を持てず、改正も現実的ではないから特措法の限度内で対応していることを報じないのだ。そして政府の力を補うように、「外出するな」「夜出歩くな」「行動履歴を全員が記録して感染を追えるようにしておけ」などと発信しないのか。先陣を切って「放送を1か月間はニュース番組に限定します」とか、ほかの時間は砂嵐(若い人にはわからない?)にしないのか大変疑問だ。
とにかくマスコミというのは本当のことを知っているはずなのに、それを報道せずに歪めるという癖がある。それは許そう。(というか若年層ではもうみな知っている)百歩譲って今こそ発信すべき。行動の徹底した自粛を連呼し80%の人との接触を削減する方法を提案するのはむしろマスコミの責任だと考えよ。そして煽るな、正確な情報を伝えよ。何々が不足するとなったら煽る、こんなになくなっていますとまた煽る。もうそういったことは止めよ、日本人に正確な情報を伝え勇気と安心を与えることが今マスコミに求められているのではないか。
同様に、現段階でさえ被害者だと言って、政府や自治体を糾弾するのもやめよう。私自身、零細企業の経営者であることから切迫したものがあるのはわかる。でも耐えることしかない時期もある。もっと先が見通せる段階になるまで耐えるしかないのではないか。「マスクよりお金をくれ」「もっとくれ」と今言っても現実不能ではないか。
だれかこうなることに備えていた者があったか。自分に備えや危機感がなくて事が起こった時、人に求めても時間がかかるのはやむを得ない。幸い融資は受けられるというのだから融資でしのいで後から補填や保証で返済の足しにするしかあるまい。
そう。誰も備えていなかったのである。映画や小説で今回のような世界は予想されていた。にもかかわらず社会も為政者も考えてこなかったのだ。未だに東京直下・南海東南海トラフの震災にさえ、備えていない。今回は世界中の問題だが震災は日本だけが沈むのだ。何故備えないのか、目に見える対策を施す時期は過ぎている。
グローバル化は正しかったか。コストが安ければ海外に工場を全て移してしまうようなことが正しかったか。安い労働力を海外から研修生という、まやかしやかしの制度で国内に入れることが良いことか。何もかもコストカットで物質的富を求め、国内に残すべき産業と割合について経団連と経産省は考えていたのか。急激な観光インバウンド集客のリスクを考えなかったのか。終身雇用は悪だったのか。肉体労働が割に合わない仕事だと思うのは誤りだ。机に座って何億も儲けるのが尊いのか。昔の日本人の価値観ではむしろ逆だが。楽して儲けるなどは一番卑しいことだったのだが。


さて次に進もう。今紹介したい本が3冊ここから引用と考察をしていく。精神的に明治に戻りたいのだ。前記事で上げたように日本人は台湾人に教えを乞う立場になったのだ。嘗ての日本人の心を、かつて日本人だった台湾人(日本統治時代に嫌な思いをしたり恨みがある人にはお詫びします)に残っている日本精神(リップンチェンシン)というものを今度は日本人が逆輸入して教えを乞うのだ。台湾人と日本精神 蔡 焜燦(さい こんさん)著の写真も貼っておく。三年前に亡くなった蔡先生は日本統治時代の台湾に生まれ劣化していない日本人をたくさん見られてきたので日本にも台湾にも大いに期待をされていたが、今いらっしゃったら日本のこの状態を見て嘆くであろう。
なぜ明治日本人なのか。
代表的日本人を書いた「内村鑑三」について紹介する。
1861(万延2年)-1930(昭和5年)高崎藩士の長男として生まれる。明治7年、東京外国語学校入学から札幌農学校にかけて新渡戸稲造と同級。明治11年、新渡戸稲造とともに受洗をうけキリスト教徒となる。明治17年アメリカに留学し帰国後「JAPAN AND JAPANESE」後の『代表的日本人』と翻訳された本書。日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者である。
武士道を書いた「新渡戸稲造」は旧5千円札の肖像で有名。
1862(文久2年)-1933(昭和8年)岩手南部御用人 新渡戸十次郎の3男として生まれ叔父 太田時敏の養子になり太田家を継ぐも稲造の兄二人が亡くなった時。時敏は喜んで本家を継ぐことに賛成した。
内村鑑三らとキリスト教に入信。欧米に留学後,母校の教授となり京都帝大,東京帝大の教授をへて大正7年東京女子大学長となる。元国際連盟事務局次長。思想家・教育者である。
「代表的日本人」も「武士道」もキリスト教徒が英語で海外向けに書いたものであることが特徴。外国で好評を博し各国で翻訳され逆輸入で日本語にも翻訳されているという皮肉。代表的日本人は日本人の文化や思想を歴史上の偉人(西郷隆盛・上杉鷹山二宮尊徳 他)を紹介することで西洋に知らせようとして書いたもの。武士道は同じく西洋人(奥様も含む)に日本人の道徳を形作ったものを説明するために書かれたものである。
武士道などはセオドアルーズベルト大統領(良いルーズベルト・悪いルーズベルトは親戚のフランクリン)が友人に何冊も配ったほどだ。この時点ではアメリカ人も日本人との親交が厚く留学した者も多かったのに何故か昭和になって偏見が強くなったのだろうか。
両者とも本を書く動機に同じような記載があるのが面白い。転載させていただく。尚訳書であるので訳者によってニュアンスが異なることは当然あることを断っておく。では動機の部分の引用
・代表的日本人(鈴木範久訳)-昔の日本の教育 中江藤樹の項を引用
「私たち西洋人が諸君の教済に訪れるまで、諸君は日本でどのような学校教育を授けられていたのであるか。日本人諸君は異教徒にしてはもっとも賢明な国民にみえる。今日の諸君があるには、さぞかし道徳的、知的な教育を受けてきたものに違いない」 このような質問に私どもが母国を離れ、初めて西洋の文明人の中に立ちまじったとき、たびたび出会います。それに対し私どもは、おおよそ次のように答えてまいりました。「そう。私どもには学校教育があった。それもなかなかのものだ。私どもは「十戒」のうち少なくとも八戒は、母の膝にいる間に父の口から学んでいるのである。力は正義ではないこと、天地は利己主義のうえに成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は、結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと、学校もあり教師もいたが、それは諸君の大いなる西洋にも見られ、今日わが国でも模倣ている学校教育とは、まったくちがったものである。まず第一に、私どもは、学校を知的修練の売り場とは決して考えなかった。修練を積めば生活費が稼げるようになるとの目的で、学校に行かされるのではなく、真の人間になるためだった。私どもは、それを真の人、君子と称した。英語でいうジェントルマンに近い。さらに私どもは、同時に多くの異なる科目を教えられることはなかった。私どもの頭脳が二葉しかないことに変わりなく、沢山はないのである。昔の教師は、わずかな年月に全知識を詰め込んではならないと考えていたのである。(これは賢明なことと思う)これが私どもの昔の教育制度のすぐれた特徴の一つだった。
「歴史」「詩」「礼儀作法」もある程度教えられたが、おもに教えられたのは「道徳」、それも実践道徳であった。観念的、あるいは神智学的、神学的な道徳は、私どもの学校では決して強いられなかった。(中略)さらに私どもは、クラスに分けて教えられることもなかった。魂をもつ人間をオーストラリアの牧場の羊のようにクラスに分けることになったのは、昔の学校ではみられなかった。人間は分類してまとめることができないもの、一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなければならない」、と教師は信じていたように私は思われるのだ。それだから教師は、私どもを一人一人、それぞれのもつ肉体的、知的、霊的な特性にしたがって教えたのである。教師は私どもの名をそれぞれ把握していたのである。ロバと馬とが決して同じ引き具を着けられることはなかったので、ロバが叩きのめされて愚かになる恐れもなければ、馬が駆使されるあまり秀才の早死にに終わる心配もなかった。現代にみられるような適者生存の原理にもとづく教育制度は、寛大で人を愛する君子の養成には向いていないように思われた。したがって、この点に関しては私どもの昔の先生は、教育論のうえではソクラテスやプラトンと同意見だった。
そのため当然、教師と生徒の関係は、もっとも濃(こま)やかだった。教師を、あの近づきがたい名称である教授と呼ぶ事はなかった。先に生まれたことを意味する「センセイ」と呼んだ。この世に先に生まれた時点で先----------必ずしもうそうでないこともあったが--------であるのみならず、心理を先に了解した時点で、先に生まれたことになるからである。その結果センセイには最高の尊敬がはらわれていた。それは両親や藩主に対する尊敬と変わりなかった。実にセンセイと両親とキミ(君主)とは、深い尊敬をはらうべき対象の三位一体をなしていた。
引用以上。以降は中江藤樹の話につづく。
内村鑑三は、「はじめに」のなかで この本は日清戦争時に書いた日本及び日本人の題で刊行された書物の再版であり、わが国民の持つ長所----私どもにあるとされがちな無批判な忠誠心や血なまぐさい愛国心とは別のもの-----を外の世界に知らせる一助となることが、おそらく外国語による私の最後の書物となる本書の目的であります。
---東京都近郊柏木にて1908年---
と書いている。日清・日露・第一次世界大戦(日本は戦勝国側)は日本軍の綱紀が最も高く保たれていた時代。日本の軍人としてのモラルが最も称賛された時代。その時代でさえ、外の世界に正しい日本観を知らせようとしていたのだ。敗戦は悲しい。昭和では国内でさえ正しい日本軍の姿は伝わらなかった。
言っておくが明治と昭和の軍隊は別物、綱紀は乱れ矜持も低下、あれから75年の今はもう明治とは違う人種になっていると考えるべきである。渡辺京二風に言えば、この間最低2度文明はほ滅亡している。
・武士道(佐藤全弘訳)序文 引用
十数年前、ベルギーの高名な法学者、故ド・ラヴレー氏の心からのもてなしをうけ、数日その家に過ごさせてもらったさい、二人で散策していたある時のこと、話が宗教の問題に及んだ。「日本の学校には宗教教育はないということなんですか」と、尊敬する老教授は尋ねられた。私が、「ありません」と答えると、すかさず、教授は驚いて歩みをとめ、容易には忘れられない口調で、こうくりかえされた「宗教なしとは!道徳教育はどのようにしてほどこされるのですか?」私は当座その質問に驚き入るばかりだった。即座に返答できなかった。というのも、私が子供のころに受けた道徳教育は、学校で教わったものではなかったからである。そうして、私の正邪善悪の観念を成しているいろんな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた。この小著の直接の発端は、私の妻が、日本ではなぜこういった考え方や習慣が行われているのですかと、その理由をしばしば質問したからである。ド・ラヴレー氏と妻とに満足ゆく答えをしようと努めているうちに気付いたことは、封建制と〈武士道〉とがわからなくては現代日本の道徳思想は封印された巻物だということであった。
長わずらいをして、やむなく無為の日々を送るほかないのを利用して、私は、家庭内での会話で返した答えのいくぶんかを、今皆さんに お示ししている順序で書き下した。それは主として封建制がまだ力をもっていた、私の若い時代に教わり、聴かされたことから成っている。
引用以上。-----1899年12月 ペンシルヴェニア州マルヴァーン----- と書いている。
内村鑑三は「十戒」のうち少なくとも八戒は、母の膝にいる間に父の口から学んでいるのである。力は正義ではないこと、天地は利己主義のうえに成り立ってはいないこと、泥棒はいかなるものでもよろしくないこと、生命や財産は、結局のところ私どもにとり最終目的にはならないこと。と書き
新渡戸稲造は私が子供のころに受けた道徳教育は、学校で教わったものではなかったからである。そうして、私の正邪善悪の観念を成しているいろんな要素を分析するにいたって、はじめて、それら道徳観念を私に吹き込んだのは〈武士道〉だったと気がついた。と書く。新渡戸稲造は叔父の太田時敏に養子に出た。本の献辞を引用する。
「過去を敬い 武士道の行状を敬慕することを 私に教えた わが愛する叔父 太田時敏に この小著を献げる」
内村鑑三も新渡戸稲造も道徳は学校で教わったのではない、それぞれの私生活の中で家庭や地域から刷り込まれたものだという。具体例がいくつも本文に書いてある。それらを読めば、なるほど日本人の道徳観、正邪善悪観が民族全体で共有された理由がわかる。江戸-明治の人達がどれほど生きることに真剣だったかがわかる。しかし悲壮感はない。
ここで先日お勧めした。逝きし世の面影(渡辺京二著)である。江戸-明治期の外国人の目から見た日本人の描写の書である。一過性の旅行者の手記もあれば、多年居住した役人や学者のものもある。先入観、好き嫌いも当然あって良いところばかりではない。しかし総じて「清潔である」「大人も子供のようだ」「子供が虐待されたのを見たことがない」「大人も子供のように遊ぶ」「よく笑う」「こんなに子供が幸せそうな国はない」「規律正しい」「正直で勤勉」等々
内村鑑三「表的日本人」 渡辺京二「逝きし世の面影」には数百年の隔たりがあるが同じようなエピソードがあるのでその部分も引用しよう。代表的日本人は「近江聖人」と言われた中江藤樹の項、西暦1600年代、逝きし世の面影からは英国人女性、世界各国を旅した有名なイザベラバードが1878年(明治11年)東北地方を旅した時の話。共に当時の交通手段であった馬子(馬の手綱を引く今でいう運転手県外どのような存在)の話。イザベラバードについては人力車夫のことも同じページにあるので書かせていただく。書くのはごく一部である。是非とも購読をお勧めする。
*「代表的日本人」中江藤樹項(時代は1600年代である)
センセイとして仰ぐべき聖人を求めて旅をする青年が田舎の宿で隣の部屋の二人の旅人の会話を聞く。
「君主の命で首府に上り、数百両の金を託されて帰る途中だった。肌身離さず金を所持していたのだが、この村に入った日のこと、日頃の習慣に反して、財布をその日の午後に雇った馬の鞍(くら)に結び付けておいた。宿に着き、鞍につけた大事なものを忘れたまま、馬子と一緒にその馬を返してしまった。しばらくして、はじめて大変な忘れものをしたことに気づいた。私がどれほど困ったか、おわかりいただけるであろう。馬子の名は知らず、探し出すのは不可能だった。たとえ探し出せたとしても、その男が、すでに金を使いつくしていたら、どうなろう。私の不注意は弁解の余地がない。君主に詫びて許される道はただ一つしかない。(人命は当時尊いものではなかったのです。)私は手紙を、一通は家老にあて他は親族にあててしたため、最期を迎える決意をかためたのである。
この言いようのない苦悩に陥っていたときのことである。真夜中遅くになって、だれか宿の戸を激しく叩く者があった。やがて、人夫の身なりをした男が、私に面会を求めていることを知らされた。その男を見るや、大変驚いた。男は、その日の午後、馬に私をのせた馬子本人であったのだ。男はすぐさま言った。
「おサムライさん、鞍に大事なものを忘れていませんでしたか。家に帰るなり見つけて、お返ししようと戻ってまいりました。これでございます」そういって馬子は私の前に財布を置いた。私は自分がどこにいるやらわからぬほどだった。うれしさのあまり我を忘れた。しかし我に返って告げた。「あなたは私の命の恩人である。命の助かった代償として、この四分の一の金を受け取られたい。命の親といってよい」 しかし馬子は聞き入れなかった。
「私はさようなものを受け取る資格がございません。財布はあなたのものです。あなたが持っていらっしゃって当然なのです。」 馬子はそう言って自分の前に置かれた金にふれようともしなかった。私はその男に是非とも十五両受け取らせようとした。しかし駄目だった。五両、二両、最後には一両を渡そうとしたが無駄だった。ついに馬子は言った。
「私は貧乏人です。このことで家から四里(16Km)の道をやってきたので、わらじ代として四文だけ、お願いするようにしましょう」 なんとかして私がその男に渡すことのできた金は、二百文だった。男が喜んで立ち去ろうとするのを、私は引きとめてたずねた。「どうして、それほど無欲で正直で誠実なのか、どうか、そのわけを聞かせてほしい。この時世に、これほどの正直者に出会うとは思いもよらなかった」貧しい男は答えた。「私のところの小川村に、中江藤樹という人が住んでいまして、私どもにそういうことを教えて下さっているのです。先生は、利益を上げることだけが人生の目的ではない。それは、正直で、正しい道、人の道に従うことである、とおっしゃいます。私ども村人一同、先生について、その教えに従って暮らしているだけでございます」
-----引用終わり-----
聖人を求めて旅をする青年は弟子にしてもらおうと思って会いに行くが、藤樹先生はただ村の教師にしかすぎず遠方から来た立派な人に頼まれるほどの人間ではないと固辞する。刀も衣類も脱ぎ、三日三晩玄関のそばで正座を続け見かねた藤樹先生の母の口添えで弟子になった。彼はのちに岡山藩御用学者となる熊沢幕藩である。
*「逝きし世の面影」第2章 陽気な人々
イザベラ・バードは明治11(1878)年、馬で東北地方を縦断するという壮挙をなしとげるなかで、しばしば民衆の無償の親切に出遭って感動した。それは旅行中味わうことが少なくなかった不愉快を償ってあまりあったのである。
その日の旅程を終えて宿についたとき、馬の革帯がひとつなくなっていた。「もう暗くなっていたのに、その男はそれを探しに一里(4Km)も引き返し、私が何銭かを与えようとしたものを、目的地まですべての物をきちんと届けるのが自分の責任だと言って拒んだ」。新潟県と山形県境の悲惨な山中の村で、「みっともない格好の女は、休息した場所でふつう置いてゆくことになっている二、三銭を断固として受け取らなかった。私がお茶ではなく水を飲んだからだというのだ、私が無理に金を渡すと、彼女はそれを伊藤(同行の通訳)に返した。山形の手の子という村の駅舎(当時の駅舎は馬の中継所-本間注)では、「家の女たちは私が暑がっているのを見てしとやかに扇をとりだし、まるまる一時間も私を扇いでくれた。代金を尋ねるといらないと言い何も受けとろうとしなかった。・・それだけではなく、彼女らはひと包みのお菓子を差し出し、主人は扇に自分の名を書いて、私が受け取るよう言ってきかなかった。私は英国製のピンをいくつかしか彼らにやれないのが悲しかった。・・私は彼らに、日本のことをおぼえているかぎりあなたたちを忘れることはないと心から告げて、彼らの親切にひどく心うたれながら出発した」。 秋田県の北部で洪水に出くわして難儀したバードはこう書く。「私は親切な人びとがどこにでもいることについて語りたい。二人の馬子はとくにそうだった。というのは、私がこんな僻地でぐずぐずせずに早く蝦夷に渡ろうとしていることを知って、彼らは私を助けようと、できることは全部してくれた。馬からおりるときやさしく支えてくれたり、のるときは背中を踏み台にしてくれたり、赤い苺を手に一杯摘んできてくれたりした。それはいやな薬っぽい味がしたが、食べるのが礼儀というものだった」。彼女は「馬子が、私が雨に濡れたりおどろかされたりしないように気遣い、すべての革帯とをしっかりゆわえていない品物が旅の終わりまでちゃんとしているかどうか、慎重に眼を配る」ことに、そして「心づけを求めてうろうろしたり、一杯やったり噂話をするために足をとめたりはせずに、馬から手早く荷をおろし、陸運会社の代理店から伝票をもらって家路につく」ことに、さらに「彼らがお互いにたいして、とても親切で礼儀正しい」ことに好感を抱いた。ちなみに彼女は陸運会社の駅馬を利用したのである。馬子だけではない。彼女は「人力車夫が私に対してもおたがいに対しても、とても親切で礼儀正しいのは、私にとって不断のよろこびの泉だった」と書いている。彼女は東北・北海道の旅を終えて今度は関西に向かったのだが、奈良県の三輪で、三人の車夫から自分たちを伊勢への旅に傭ってほしいと頼まれた。推薦状ももっていないし、人柄もわからないので断ると、一番としさかさの男が言った。「私たちもお伊勢詣りをしたいのです」。この言葉にほだされて、体の弱そうな一人をのぞいて傭おうと言うと、この男は家族が多いうえに貧乏だ、自分たちが彼の分まで頑張るからと懇願されて、とうとう三人とも傭うことになった。ところが「この忠実な連中は、その疲れを知らぬ善良な性質と、ごまかしのない正直さと、親切で愉快な振る舞いによって、私たちの旅の慰めとなったのである」。伊勢旅行を終えて彼らと大津で別れるときが来た。彼らの頭である「背の高い醜い男」について彼女は書いている。「この忠実な男と別れなければならぬのかとどんなに残念か、彼のいそいそとした奉仕、おそろしく醜い顔、毛布を巻き付けた格好がもう見られなくてどんなにさびしいか、言いあらわせないほどだ。いやちがう。彼は醜くはない。礼儀と親切に輝く顔が醜いということはあり得ない。私は彼の顔が見たいし、またイエスが幼な児について「天国にあるのはかくのごとし」と語られたように、ある日彼について語られることがあるようにと希むものだ」
バードは言う。「ヨーロッパの国の多くや、ところによってはたしかにわが国でも、女性が外国の衣装で一人旅をすれば現実の危険はないとしても、無礼や侮辱にあったり、金をぼられたりするものだが、私は一度なりとも無礼な目に逢わなかったし、法外な料金をふっかけられたこともない」
-----引用終わり-----
「逝きし世の面影」は600頁ほどの本であり、多数の外国人が様々な日本について語っている。ここに紹介したのはそのうちのたった2頁である。しかし全体的に日本について同様の印象を持ったものが多い。その中には先にも言ったように日本嫌いやある方向の先入観を持って日本人を見ていた人たちさえも語っていることだ。
実際に滅亡した日本人がかつてはそこに無数存在したということだ。
最後に「逝きし世の面影」第1章 ある文明の幻影から 引用したい。
チェンバレンは明治6年(1873)に来日し明治44年(1911)年に最終的に日本を去った人だが1905年に書いた
「日本事物誌」第5版のための「序論」の中で、次のように述べている「著者は繰り返し言いたい。古い日本は死んで去ってしまった、そしてその代わりに若い日本の世の中になったと」。これはたんに、時代は移ったとか、日本は変わったとかいう意味ではない。彼は一つの文明が死んだと言っているのだ。だからこそ彼は自著「日本事物誌」のことを古き日本の「墓碑銘」と呼んだのである。「古い日本は死んだのである。亡骸を処理する方法はただ一つ、それを埋葬することである・・・このささやかなる本は、いわば、その墓碑銘たらんとするもので、亡くなった人の多くの非凡な美徳のみならず、また彼らの弱点おも記録するものである」
中略
日本における近代登山の開拓者ウェストンも大正14年(1925)に出版した「知られざる日本を旅して」の中で次のように書いている。「明日の日本が、外面的な物質的進歩と革新の分野において、今日の日本よりはるかに富んだ、おそらくある点ではよりよい国になることは確かなことだろう。しかし、昨日の日本がそうであったように昔のように素朴で絵のように美しい国になることは決してあるまい」
-----引用終わり-----
チェンバレンもウェストンも、日本文明の滅亡を見届けた人である。当事者(日本人)は滅亡を気づけなかった。
外国がもたらした産業革命、唯物主義が それまでの唯心主義をウィルスのように食いつくし滅んだことを。
外国人が予言したように、物質的には確かに豊かになった。一家に一台以上自動車を所有し、飽食と言われるような食べ物の30%はゴミになるような豊かさ。何も物を生産しなくても巨額の富を得ることが可能になり、人生が所有の多少や損得が基準で測られるようになった。これでよいのか。私は滅びた日本の行動規範は、論語・朱子学・陽明学いずれも大陸の文化を日本流にアレンジしたもので日本において開花した文明と解している。
最後に言いたい。この文明の滅亡。これが他国の話だったらともかく日本としては放置は よろしくない。国柄としてよろしくないのだ。
他国と同じようになりましょうというのがいけないのだ。
日本人としての価値観は、モノではなくて心。尊敬されるべきは心の高さ。軽蔑されるべきは心の低さだ。
ウィルスは異国からやってくる。やってきても我々は共に一致して戦わなくてはならない。
教育勅語を教育の外に追い遣った日教組や革新系思想の人に言いたい。あなた達が問題だと言っているこの部分。
「一旦緩急あれば義勇公に奉じ、以て天壌無窮の皇運を扶養すべし」
は「万一国難に陥った時、国民全員が大義に基づいて勇気をもって一致協力して皇国日本を守ろう」
ということではないか。至極正しいことを言っているではないか。
ロケットやミサイルを使った戦争しか想像できない貧困な思想を恥じるべきだ。2000年以上続いていると私が思っている日本国が、滅びゆく姿はみたくない。どうぞ延命(日本を)させてください、そのためには私のすべてをささげます。という気持ちで神仏に祈る日々である。どうか力のある、発信力のある人が、この記事を見て国を守るには人心の刷新こそ必要ということに考えを向けていただくよう、こちらも併せて祈る次第である。
2020春 『武漢コロナ禍の中の日本』
2020年04月04日

今年も桜が咲いた。写真は昨年アップした場所と同じく伊弉諾神社前の道。しかし今年は見え方が違う。
自分の心が違うからだ。春から初夏にかけては最も生き生きして好きな季節だが、今年は今一つ明るい気持ちになり切れない。そういう人は多いだろう。
外出を控えている機会に 渡辺 京二 (著)『逝きし世の面影』を読まれることをお勧めする。幕末から明治にかけての日本人が外国人にどう映ったか。現在日本人とは明らかに違う日本人がそこにいる。それを私は劣化として捉えるが、ある人から見ると(市民の権利を優先する人)進化なのかもしれない。しかし当時の多くの外国人が予言したように日本人は滅んだ。その結果がこの『武漢コロナ禍の中の日本』なのだ。
そんな折、インターネット上で
魔魔嘎嘎さん(@MOGAooo)さんの漫画を
台湾史.jp(@TaiwanHistoryJP)さんが紹介しているものをみた。
この漫画が平生私の言っている
『明治日本人最高説』を云い得ていると思ったので
引用させていただいた。
日本は1895年(明治28年)に清から台湾を割譲され統治した。(ちなみに朝鮮併合は1910年(明治43年)から)教育・医療・行政・金融・社会インフラを日本経済の身の丈以上にお金をかけて整備した。強い志を持って取り組んだ幕末-明治人がいたのだ。例として教育において
1.東京帝国大(明治19年)
2.京都帝国大(明治30年)
3.東北帝国大(明治40年)
4.九州帝国大(明治44年)
5.北海道帝国大(大正7年)
6.京城帝国大(朝鮮)(大正13年)
7.台北帝国大(台湾)(昭和3年)
8.大阪帝国大(昭和14年)
大阪帝国大学の前に 朝鮮と台湾に帝国大学を設立したことでもわかる。初めは日本人有利の教育制度であったむきもあるがやがて教育の機会は平等に近いものになっていく。

愛国行進曲にある『四海の人を導きて 正しき平和うち建てん』という気持ちが確かにアジア唯一の5大国に名を連ねた明治日本人にはあったのだが、特に現代の朝鮮、韓国の人には大きなお世話だったのだろう。本当に大きなお世話してしまった。こればかりは当時の日本人に反省してもらいたい。
家庭・学校・職場 全てに於いて劣化した日本人が溢れている。(もちろんその中に私自身も含めなければならない)嘗ての日本人が範たる人々だったため劣化してもアドバンテージがあったのだ。しかしそれも使い果たした。
『マニュアルがないと何もできない』『マニュアルを作るのが仕事になっている』という言葉をあちこちで聞く。
実際、政治に要請されても法律で縛られないと行動も改められないではないか。だから現代日本人には『緊急事態宣言』を発令しても何も変わらないだろう。法的強制力がないからだ。憲法を変えなければ自発的に行動を改められないところまで人心が劣化しているではないか。
明治人が今のインフラを持っていれば武漢コロナも国内では終息したはず。法的な縛りがあっても現代の日本人は公の意識があまりに欠けている。個が増大して国家より市民が上のような意識が一部の人間(多くかもしれない)にあるのがいけない。公共や道徳が優先される時があってもしかるべきと悟るべき。時として自己犠牲も甘受しなければならないと皆が考えるべき。それが有機体としての国家国体の護持に必要。
残念ながら日本国(精神)はすでに何度か絶滅している。でも続いているかのように錯覚しているのは皇室が存続しているからだろう。それも女系(女性ではない)継承で滅びる。そんな日本は見たくないが幸いにして滅びる日本を見ることなく今世を終えるだろう。美しいと思える日本で生きられた事を幸いに思う。(過去形)
藤井一中尉のこと。(4) お彼岸にて2
2020年03月21日
藤井中尉のことで不思議なご縁がありましたので記させていただきます。
お供えする花を中尉が仮住まいしていた深谷市で求めようと妻が時々行く花屋さんに一緒に行きました。私は初めてでしたが、藤井中尉の資料も持っていきました。対応に出たのは息子さんでしたが戦時中のことを聞くと御主人(お父さん)を呼んでくれました。私が藤井中尉のことを話し○○屋の○○さんの家に住んでいたのですが○○屋さんのこと ご存じないかと問うと同級生の○○君の家が昔○○屋だった記憶があるとその場で電話をしてくれました。
同級生といっても ご主人も昭和18年生まれです。
途中で電話を替わっていただくと正にそのかたの実家が下宿先でした。早速、翌日お墓参りの帰りにアポイントもなく寄らせていただくと、花屋さんの同級生の兄嫁さん(お兄さんはお亡くなりになったそうです)に お茶をいただいたうえ藤井中尉のお世話をしていた お義母さんの自叙伝 タイトル「有終の日々に生きて」(非買と聞きましたが3000円となっています)を お貸しいただきました。200頁のほとんどが御当家のお話ですがその中の5頁
藤井中尉家族の部分以下に転載させていただきます。

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12特攻隊藤井肇中尉 一家の悲劇
年の瀬もせまったある日のこと○○さん(○○さんのお姉さん)より次のような手紙を頂きました。
「昭和六十年の朝日新聞に、戦時中は実に様々な記事 の差止め命令をされていたという例として、勝井中尉の事が出ていました。それで、私はこのまま埋もれさせてしまうのは、藤井一家が浮かばれないと思い、投書しました所 取り上げられた訳なのです。
記者の方から、この悲劇を埋もれさせてはならない、世に知らせなければならない、是非協力してほしいとの電話がありました。私は○○さんなら何から何までご存知なので、お許し頂きませんのに朝日の方に紹介申し上げました。何かと ご迷感をおかけすると存じますが、お許し下さい。」
二、三日して朝日新聞から私に電話があり、藤井中尉のことについて聞かせてほしいとの事ですが、電話ではとても話し切れません.一応お話ししましたが、四十年経った今日では今更の様に頭に痛くひびきお手紙差し上げる必要もないとは思いましたが、何となく物足りなさで後味が悪く筆を取りました。
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前略
あの痛ましい藤井中尉夫人の当時の話を聞いてあげてください。
戦争は日々激しくなって、三ヶ尻の飛行場には沢山の兵士達が来ましたが、宿舎に困り、空室のある家は軍人に
貸すようにとの指令がありました。私どもにも奥座敷に八畳二間空いていましたので、町内会長の役柄率先して中尉に貸すことにしました。
中尉は○○県の農家の長男、奥さんは○○のサラリーマンの娘でした。四歳と二歳の娘さんがいました。戦争さえなければ平和な家庭が築かれていたのに、益々 戦争は激しくなりました。特攻隊員は日に日に数を憎し、敵陣目掛けて散って行きます。中尉も指を切り、日の丸に血書を書いて特攻隊に志願し、覚悟を決めていたとの事です。毎晩のように、奥さんは何とかして思いとどまる様申しましたが、覚悟は堅く堅く私が言う事など耳を貸しません。 と涙ながらに語りました。
その上、中尉は私の戦死の後は長男の嫁だから○○帰り、両親の面倒は勿論の事、農業もやる様にと申したそうです。戦争中の事もあってでしょうか、○○の方では畑に行くのに子供を紐で大黒柱に縛りつけて行くのだと悲痛の面持ちで私に語ります。それがどんなにか、農業もやった事のない奥さんには大きなショックを受けたのでしょう。
忘れもしない昭和十九年十二月十四日のあの頃は、北風が冷たく頬を刺す様な日でした。四時頃、余所行のねんねこ半纏を着て四歳の一子ちゃんの手を引いて お使いに行って来ますと出かけました。夜になっても奥座敷は真暗、そこに中尉が帰ってきました。
家内は何時頃に出掛けたでしょう、と聞きましたので四時頃と答えました。すぐに奥さんの実家に行きましたがいません。すぐ警察に捜索願いを出し、部下を連れて四方八方探しましたが見当らず、翌朝荒川の熊谷大橋の下流百米位のところに水死体となって見つかりました。一人はおんぶ、一子ちゃんは太い紐でお母さんと離れないように結わいつけであったそうです。砂だらけの遺体を毛布に包み帰って来ました。
私は三人の躯をお湯ですっかり綺麗にふいて着物を着替えさせてやリましたが、あまりにも哀れで涙もでませんでした。中尉は、しばらく遺体にすがっていましたが、すぐ後から行くからといいながら綺麗にお化粧して上げました。少しも病みませんので生きている様でした。 燈火管制の厳しい折でしたから、飛行場から毛布を沢山持って来て、八畳二間を燈の漏れない様に囲み、その晩隊長も来てお通夜をし、翌日火葬にしました。
両家の人たちと私の家族の者とだけでひっそりと火葬をすませました。三つの白木の箱を包む風呂敷を、私は三枚差し上げて包み、 ささやかに告別式を行い中尉は三つの遺骨を抱えて○○に帰りました。
戦時中の事で誰もよく知らないのに、○○さんは若かったのによく覚えていて下さいました。もう、戦争はこりごりです。藤井中尉も特攻隊として武勲を立ててお国の為に散っていった事でしょう。
藤井中尉ご一家の冥福を祈り、世の中が情操豊かな明るい住み良い社会になる事を祈ってやみません。
終りに、朝日新聞社の益々の御発展を祈念いたします。
昭和六十年十二月
朝日新聞編集部 ○○様
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この手紙を新聞社に送りました後、編集部の○○様は二回私どもに見えられ三ヶ尻飛行場や熊谷大橋の現場も私と一緒にみてまいりました。
このような事件はたくさんあったでしょうが、戦時中は情報は全くありませんので埋もれて失ったのでしょう。
靖国神社のあの大鳥居をくぐると、ひとりでに身近な神々が頭に浮かび涙がとめどなく落ちました。
今はもう年老いて参拝もかないません。大勢の神々のお陰で日本も豊かになりましたが、この儘何年続くやらと老婆心ながら不安を感ずる今日此の頃です。
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「戦争はもうこりごりです」という言葉が重いです。単に自分の生活が苦しかったとか、身内が亡くなったとかだけでなく、他人の悲劇も経験した人は自らの事と捉えておられるのでしょう。私は駆逐艦ドレクスラーを沈めたのは藤井中尉の屠龍だと思っていますが ドレクスラーも死者158人出していて、皆家族がいたわけです。戦勝に勝者がいるのか。戦争の勝者とは悲しいかな面の皮の厚い戦勝/敗戦利得主義者だけなのです。
藤井一中尉のこと。(3) お彼岸にて
2020年03月21日
今年の春の彼岸は、7箇所のお墓参りに行きました。真っ先に念願の藤井一中尉ご一家のところにもうかがいました。遅すぎたなぁ と思います。大東亜戦争は遠い昔の祖先のものになりつつあります。現代の戦争はソフトな戦いです。経済や資源および人材の依存や力を背景とした威嚇によって、相手を屈服させるものになっています。現代のわれわれはそれに備えねばなりません。
75年前は武力を行使した戦争でした。当時の日本人は、当時の価値観の中で戦いました。しかし私の持論ですが既に大正から昭和にかけては日本人の劣化が始まっていました。簡単で申し訳ありませんが海軍は士官を特攻に行かせず温存。陸軍は海への攻撃前提で訓練していないのに机上の空論による特攻。司令官、参謀クラスはド素人の逃げ回り、陸海ともイジメ体質。結局命を差し出したのは下士官や兵ばかり。
藤井中尉がどうしても我慢できなかったこと、自分のことのようにわかります。でも私には絶対できなかったと思います。特攻という行為は大西瀧二郎中将のいうように統率の外道、当時でも多くの反対者がいたようにやってはならない ある意味日本軍の恥部であり同時に散華された英霊は顕彰しなければならない存在です。
以前に書きましたが出征はしたものの敵の姿を一度も見ることなく、病気になって戦友に迷惑をかけ湿地で足が抜けなくなったまま死んでしまったような方々が沢山いたわけです。靖国で英霊なんて呼ばれてよいのかな。と思っている方々に心からお礼します。出征していただいただけで充分英霊です ありがとうございます。

散華した英霊とそのご家族がずっと大切にされる存在なら良いのですが僅か75年で日本の墓参りも変わりました。いつまでこのような風習が残るのか疑問です。藤井中尉の墓所には彼岸の入りの昼に伺いましたが、既に献花がされていました。ご家族でしょうか ほっとしました。私は今回 許可を取って伺いましたが もうそっとしておいてほしいというニュアンスだったこと書き添えておきます。
藤井中尉のこと語り継いでいかなければならないと思っている方、どのくらいいらっしゃるのでしょうか。私はもちろんそう思っていますし、ある意味その役目が自分にあるのではないかと勝手に思っています。
藤井中尉ご一家のことを想う人のために、墓石に刻まれた文字を謹んで写させていただきました。個人名の部分は○○とさせていただきました。
昭和廿年五月二十八日 戦死 俗名 藤井一 行年 三十一才
昭和十九年十二月十五日 同人妻 同 ふく 同 二十五才
昭和十九年十二月十五日 一ノ長女 同 一子 四才
昭和十九年十二月十五日 一ノ次女 同 千恵子 一才
建国記念の日 (紀元節に令和の日本を考える)
2020年02月11日
昨年の同日記事も合わせてご覧んください。
- b) 人生/社会観(若人へ)の記事一覧も見てみれば昨年8月から新しい記事がなかったです。しかしまあ神話のカテゴリも若者に読んでもらいたいと思って書いていますので想いは同じです。
日付が2020年02月11日と自動的に西暦で記載されてしまいますが、本当は『皇紀2680年』です。これは紀元前660年に初代 神武天皇が橿原の宮で即位されたことから、この日が 『紀元節』 とされているのです。
ただし当然、暦(こよみ)がどれだけ庶民に密着していたかというと、江戸時代以前と明治以降で違うわけです。明治までは長く暦は二十四節気や雑節(ざっせつ)で示され今でもそのほうが日本の季節感に合致するという意見もあります。年号は文久・元治・慶応などの元号が一般的でした。
私見ですが皇紀が使われたのは明治政府が定めた日本の正史(真実と事実の違いは別項に記載がありますのでごらん下さい)に基づいたもので、西洋歴に対する紀元歴ともいうべきものだと思います。「日本人は誇りを持って外国とお付き合いしましょう」という当時の人々の想いの発露、「明治人至高説」を持論としている私としては当時の人が喜んで「皇紀」を使っていた時代が羨ましいです。同様に今の誕生日記念日好き日本人は 四大節(元旦と誕生日)くらい全国民でお祝いすることが何故できないのか。考えていただきたいとも思います
大東亜戦に於いて昭和20年8月(日本軍の有条件降伏武装解除(休戦))を経、サンフランシスコ講和条約(昭和27年4月戦勝状態の終結)まで7年間日本は戦勝連合国に占領されました。
実質的に完全独立国ではないアメリカ中心の連合国占領下の日本だったわけです。その間、色々なことが決められました。皆さん考えてください。占領軍中心だったアメリカ人は当時 以下ような考えを持っていました。 こんな人たちが日本のための政策をしてくれると思いますか。もう一度書きます読んだ後考えてください。
今の私たちにとって差別の元になってはいけませんが敢えて書きますので事実は各人で調べて下さい。
=== 戦争開始時の第32第米大統領=フランクリン ルーズベルト(悪いルーズベルト(良いルーズベルトは第25第セオドアルーズベルト))は ===
「日本人は頭蓋骨の発達が白人より 2000年 遅れているから邪悪なのだ」と語り、本当にそれを信じていた。
=== 原爆を投下の第33第米大統領 ハリー トルーマンは ===
「叔父のウィルは、神は砂で白人を作り、泥で黒人を作り、残りを投げ捨てそれがChineseになったと言っていた。叔父はChinese人とJapが嫌いだった。私も嫌いだ」
原爆投下後「多くのキリスト教徒が動揺している。それが無差別破壊だからだ」と指摘され「獣を相手にするとき、あなたはそれを獣として扱わなければならない。大変残念だが、それでも真実だ」「後悔していない」「全く心が痛まない」と語り、道義上の問題があるので決定は難しかったのではと問われると、「いやいや。こんな調子で決めたよ」と、指を鳴らしボーイを呼ぶまねをしたそうです。有色人種は犬猫以下と本気て思っている人もいた、為政者の中にもいた、そんな時代だったのです。
(だからドイツには原爆を使わず 日本に2発落としたと言われている)
=== 日本を占領した連合国軍最高司令官はダグラス マッカーサー === もまた日本人が大嫌いだった。
フィリピンの前線で我が本間雅晴中将率いる第14軍と対峙、敗走し、10万余りの将兵を捨ててさっさと逃亡。有名な「I shall return」残されたアメリカ兵は、この言葉を「尻尾を巻いて逃げる」という意味に皮肉ったという。なぜフィリピンがアメリカ側だったか、その歴史も調べてみると良いです。やっぱり白人の理屈です。
マッカーサーは日本占領軍総司令官でした。こんなことも言ってます。
「もし白人が、科学、芸術、神学、文化などの分野において45歳だとすると、ドイツ人は我々同様十分成熟している。しかし、日本人は歴史の長さにもかかわらず、まだ勉強中の状態だ。近代文明の尺度では我々が45歳であるのに対し、日本人は12歳くらいの子供だ。日本人には基本的な思想を植えつけられる。事実、日本人は生まれたばかりのようなもので、新しい考え方に順応性を示し、我々の好きなように教育ができる」
確かに、日本人の頭は劣っていたようです。この言葉通り占領がうまくいったのは日本だけです。ベトナムでは戦争に負け、中東もいまだに洗脳できず却って アメリカは反感を買っています。なぜ日本だけ占領(洗脳)がうまくいったのでしょうか。
WW2敗戦同盟国 日本・ドイツ・イタリアの憲法改正数を比べてごらんなさい、それぞれ(0・59・20)日本の異常さがわかりますね。白人が45歳だとすると日本人は12歳どころじゃなくて、4~5歳かそれ以下、自分のことを自分で考えられない人種になり下がったということです。本当に脳の機能が異常をきたしているのかも。生き物として一番初めの本能、自分の命を守るという事さえ自分で考えられないのですから。

さて今回は、写真の記事はわずか、私も近年残りの人生が予想より短そうなのでペースを上げて本を読んでいます。
この頃は、昭和の陸軍飛行隊系(熊谷航空自衛隊の地元なもので)そしてやはり日本人の心の劣化は
明治>大正戦前>昭和戦前>戦後占領期
>>>平成>令和
であることを残念ながら確信しています。
日本という飛行機は今から機首を上げて間に合うか?
軍令部総長 永野 修身や航空艦隊司令長官 大西瀧治郎がいふやうに一度滅びて数百年後に復活できるか、
気になるのは、GHQによって根絶やしにされた大和魂が何処かに息をひそめ、その日を待ってるのかという事。
日本オオカミや日本カワウソがどこかにいると信じている人みたいになっている。形も血筋も日本人だって大和の心がない人は日本人ではなく、逆に血統はどうであれ大和心を持つ者が日本人なのです。(持論)
血統が必要なのは、皇統のみである。(確信)
男系を辿れば必ず神武天皇に着く、天孫に到る、大御神に到るという系統のみは日本に必要なのです。(確信)
ですから、女性天皇は◎ 女系からの天皇は××××× なのです。(ここを理解できない人多し女系と女性違いを述べられる人どれだけいますか?理解せずの発言は危険です)是こそが、日本占領下で連合国が植え付けた日本弱体崩壊化(日本が嫌いな人が方針を決めたのだから当たり前なのです)の萌芽であることを知らねばなりません。
芽が小さいうちに摘まないと・・・。
建国記念の日に 国を憂う悲しさを和歌にしたいところですが心得がありません。
『いにしへの大和のつむぎ淀みなく
無窮(むきゅうに)に糾(あざな)へ機翼にのりて』
これでは突っ込みどころ満載でしょうか。良し悪しもわかりませんが詠んでみました。
敗戦の日を機に日本の将来を憂う(1)英霊に謝す
2019年08月18日
軍令部総長 永野 修身
「戦わざれば亡国と政府は判断されたが、戦うもまた亡国につながるやもしれぬ。しかし、戦わずして国亡びた場合は魂まで失った真の亡国である。しかして、最後の一兵まで戦うことによってのみ、死中に活路を見出うるであろう。戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう。そして、いったん戦争と決定せられた場合、我等軍人はただただ大命一下戦いに赴くのみである」
軍令部総長といえば、言わずと知れた海軍のトップ。永野修身軍令部総長はエリートを養成する海軍兵学校を次席で卒業し、米ハーバード大学に留学したり、在米大使館の駐在武官などで、3年ほどアメリカで生活した人、当時陸海軍を問わず、エリートは皆海外留学や駐在武官として派遣されていた人が多く、アメリカの国力を誤って戦争してしまったなどということは断じてない。その中でも永野総長は軍人でなければ、住み続けたいと言っていたぐらいアメリカ好き、筋金入りの親米派だったのです。
その永野総長が「戦ってよしんば勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我等の子孫は再三再起するであろう」と期待していただいた我々ですがこの体たらく。米軍の占領が巧妙だったこともあったでしょうが、日本が敗戦国として永遠に扱われること、日本人の心を失うことで得をする、所謂、敗戦利得者なるものの餌食となっているのが実情です。命がけで挑んだ先人には本当に申し訳ないことです。
先の戦争といわれる大戦をアメリカの占領中に太平洋戦争と呼ぶことを強制され、大東亜戦争という言葉は使用禁止にされました。しかし占領が終わってもすべてのメディアが太平洋戦争を使います。現代の若者の中にはアメリカと4年間戦争してその後7年間占領されたことも知らない人もいるそうで、恐ろしさすら感じます。
占領期に効いたのは、公職追放と検閲、マスコミを検閲してアメリカに都合の良くメディアを使った。NHKラジオは1945年12月から1948年まで占領軍が作成したラジオ番組『真相はかうだ』をさも日本人が真実を語ったかのように放送した。「悪いのは軍国主義者の指導者たちで多くの日本国民はその犠牲になったのだ」という嘘の放送、しかし皆が真実と信じた。国営放送が嘘を放送しないだろうと。これがプロパガンダです。ドイツ人がナチスに罪を擦り付け俺たちは悪くないみたいな卑怯な思考を日本人は持つべきではありません。正しく大東亜戦争を総括をしなければなりません。
占領中は言論の自由はなかった。朝日新聞は「原爆の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう」という談話。「ほとんど全部の日本人が異口同音にいっている事は、かかる暴虐は信じられないといふ言葉である」という捕虜虐待の内容の記事がもとで発刊禁止。これで完全にビビってしまい公職追放と相まってマスコミは全部、今でもプレスコードがかかっているかのような報道しかしません。74年も経っているのに。政府の悪口さえ言っておけばいい、戦争の反省だけしておけばいいという敗戦利得癖。敗北主義の主張。
1948までの公職追放で愛国者とみられた20万人が職を奪われ、その範囲は教職にまで及んだ。この期間によって以降今まで、教育関係は完全に敗戦利得の一部となったのです。だから大学生でも近現代史を知らせない。敗北主義教育。さて、こういった基盤の上に自分たちが生きていることを自覚して、自分たちはダメ日本人だったけれど、これからの子孫のために日本を取り戻すにはどうしたらよいかを考えなければなりません。
政治家は無責任すぎます。戦争に備えよとは言わないが、(本当は間接侵略に備えるべき)東海東南海地震で32万人が死亡する予想が立っているのに、命を守ることは自治体任せ、実際災害が起こった時のインフラや経済についてなぜもっと早く真剣に考えないのでしょうか?東京直下地震、富士山や浅間山の噴火についても同様、この人たちはもう完全に侵略されてしまって、日本が滅びるのを待っているのではないかとさえ思ってしまいます。
自民党も信じられないが、その他もひどい。本当に災害に、侵略にまじめに備える提案をする政党はないものか?英霊が守ってくれていると信じているけれど、生きている日本人が一番頑張らなければならないのですよ。
プロフィール
代表取締役社長:本間 剛1964年12月生まれ
東京電子専門学校
メディカルエレクトロニクス科卒
趣味 : 読書/仕事
座右の銘 : 吾以外皆吾師カテゴリー
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