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b) 人生/社会観(若人へ)の記事一覧
少子化を真剣に考える(4) 現実をみて、ではどうする。(個人的な考えです)
2019年06月08日
母体保護法は厚生労働省の管轄です。調査結果も政府統計総合窓口ホームページで公表されています。左の表はダウンロードできる表を並び替えたものです。総数とは、その年度ごとに届出がされている人工妊娠中絶数です。届出がされないで手術されている数のほうが多いのではないかという話までありますので、これが実数とは考えられません。昭和30年から平成29年までを足すと、ほぼ3,500万件、実数は1億件を超えているという説もあります。現在子供が産める年齢になっているであろう昭和60年から平成5年くらいまで平均50万件くらいの中絶が行われているので、婚姻率も下がっていますがそれを無視して半数が女性だとすると、人口減少の一因だったかもしれません。救いは絶対数が年々減っていてピークの1/10になる年も近いのではないかと思えること。本当はゼロにしたいですが、母体に危険がある場合は当然、母体優先の選択としてあるべきです。


では問題の解決方法です。
*現在でも行われ続けている人工妊娠中絶。10代の妊娠や母体の危険性などはもちろんケアしなければなりませんが、なるべく産んでもらうことはできないでしょうか。今の日本人は血統にこだわりすぎです。血統が大事なのは男系男子の皇統だけ。それ以外はたとえ実の親子であっても子殺し虐待が当たり前のように報じられる現代の日本社会では、血のつながりがなくても縁と愛で繋がっていることのほうが大事です。これだけは私は当事者として確信しています。産んでいただくだけで結構。あとは「親の恩は子で送る」精神で立派に育ててまいります。という志のある人がたくさんいるはずです。そういったことが容易にできる社会の仕組みにしていきましょう。
*最も深刻なのは日本人の道徳と胆力の低下です。「他人と同じやなきゃ嫌だ」「我慢できない」という大人を沢山製造してしまいました。(団塊前後が)昔の人が見たら日本人も変わったなぁと言うことでしょう。どういう振る舞いが日本人らしさかということを、戦前否定によって知らされなくなったため日本人としての矜持とか誇りが完全に無くなった、ただの大人しい人間ばかりになってしまいました。再教育を行うには本当の現近代史を大人に教育すること。団塊前後世代は無理です諦めです。世の中の良心的で素直な人に日本人の姿を知らせましょう。GHQによる占領以降日本の教育を歪めてきた教育関係者やマスメディアなどの運動家がこの世の中を作ったのです。責任を取ってもらいましょう。(改まるとは思えませんが) 個を肥大させ、弱者を強者に育てるノイジーマイノリティ優位の社会。こういったことを改め元々あった共助の精神を取り戻して再生できれば、たとえ少子化しても日本人はやっていけるはずです。私が生まれた川崎区桜本町。貧しい子沢山の親たち、国籍が違っても同じ日本人として皆笑って生活していました。月にいくら以上ないと生活できないとか、他人と同じ待遇にしろなんていわずに子宝に囲まれて幸せそうでした。そんな社会にするには心の訓練が必要です。差があって当たり前。貧乏でも幸せな日本人が沢山いた時代がちょっと前にはあったのだから取り戻すこともできるでしょう。
*物を多く持っている人が偉い(成功者)という価値観は日本人として間違いです。むしろそういうものは溜め込んだら恥。唯物論から元々の唯心論へ戻りましょう。持たざるものでも心が整っている人こそ尊敬される社会にならなければなりません。自分のできる範囲内で、どれだけ人に尽くせたか、愛せたか。その最も近い対象が子供や妻夫という家族。もちろん例外はあっても良い。しかし多くの人がそうであって欲しいです。経済力が弱くても夫婦仲良く、親は子を、子は親を大切にして仲良く暮らす。家族、地域、社会、国家を想う生き方こそ尊い日本人の生き方です。(教育勅語に書いてあることでした)教育勅語をみんなで読みましょう。二宮尊徳の像を復活させましょう。二宮尊徳が薪を背負って本を読んでいるのは、両親を失って叔父に世話になっていたとき、夜、本を読んでいると使っている明かり用の油は叔父のものだと言われ。親の残した荒地で菜種油を育てて使っていたら、お前の時間も叔父のものだと言われたので止むを得ず。槙を運びながら本を読んだのであって、スマホしながら歩いてる現代人とはレベルが違うので、まねしたら危ないと学校から撤去されるのは、そういうことを知らない、知ろうとしない人がやっているんだと思います。ちゃんと説明すれば、そういった感覚的な教育のほうが危険だということがわかるのです。
こういったことの積み重ねがやがて日本人を元の姿に近づけ少子化はとまらなくても緩やかになり、また少子化してもやっていける国になると信じていますが、私には力がありません。ネットの力、発信力の大きい人がぜひ提案していただきたいものです。安倍 晋三さん。あなたが言ってた日本を取り戻すってそういうことじゃなかったのですか。私は期待してしまいましたよ。今は失望しております。
少子化を真剣に考える(5) 現実をみて、ではどうする。まとめ。
2019年06月08日
結婚というものにネガティブなイメージを描く、または間違った(私から見て)考えを持って独身でいる人が多いように思えます。動物が本能に基づいた生殖で結びつくのと違って、現代の人間の場合は動物にない何かによって結びついているはずです。貧しい国では子供は労働力として、日本でもかつては売り買いされたという事実があるのです。しかし現代は日本史上最も自由な状況で家庭が営める時代を生きているのではないでしょうか。(これから先は私たちが子孫のために環境を作ってあげる番です)戦後は「女性の地位が低く、生活できないから結婚するしかなかった」「ご飯の支度などの家事労働のために嫁をもらった」等も実際の動機としてあったとは思いますし、これらが時代が変わったことで動機から外れたことで婚姻率が下がっていることは間違いないでしょう。
私個人も結婚は早いほうではなかったし、子供も独りしかいません。個人的には里親制度や特別養子縁組にも取り組みたいと思ったことはあったのですが、自分だけでは決められないし難病持ちとなってしまった今ではあきらめています。私は何かを期待するような結婚というのは動機として順位をかなり下げないといけないと思います。
自由が大きくなると婚姻率が下がる。先進国(経済的向上)では皆同じような出生率が低下傾向があるわけですが、日本だけはそうなって欲しくなかったです。経済的に豊かになって(ピークは過ぎても比較すれば豊かなほう)自由が拡大しても日本人は婚姻率、出生率とも下がらなかった。というようになって欲しかった。
結婚とは自分が何かを望んだり、何かをしてもらうことではなく、自然と催してくる他人のために何かをしてあげたくなる。この人のために役にたちたいという思いが出てこないとできないことだと思います。ある一定の年齢になれば自然と催してくるはずの感情を、実現できないんだと感じてしまうのはマスメディアや団塊前後世代が作った価値観にあるはずです。だから その世代の子供の年代で婚姻率が下がっているのです。これは、家庭教育、学校教育、社会の価値観が間違っている(主観)からで、そんなことを言ったら私ども中小零細企業に勤める人間なんて結婚できないということになってしまいます。
男性は総じてシャイです。戦国時代から日本人は男女同じに育てると、男は男にならないことを知っていたから子供のうちは「男女七歳にして席を同じゅうせず」(違う解釈が多いが)だったのです。私の周りでも男女とも独身が多く、結婚に関してあきらめていたり悲観的に考えたりしている人が沢山います。ここで昔は世話を焼く周囲が動いて相手を探したり、無理やり結びつけたりしたのですが、いまは出すぎたことを憚る世の中ですので、単身者の家族も困ったものだということで終わってしまいます。
「経済的にいくらないとやって行けない」「非正規では結婚できない」シャイな男性側がこういう思考に陥っていたら女性から声などかかったくるはずないのですから、一生独身決定です。人のためになりたい男性に言います。シャイなおっさんは可愛くないです、勇気を出して行動しましょう。出会いを待つ女性に言います。不器用でカッコ悪い男性の話しも聞いてみてあげてください、良い所がきっとどこかにあります、後から味が出てきます。二人で前向きに明るくまじめに生きれば乗り越えられない壁はありません。きっと誰かが手を差し伸べてくれる。運が開けてくるのです。
人のために働くことの喜び。一緒に食事をして「おいしい」と言っている相手の笑顔見たときの喜び。こんなもと思うことが結婚の見返りとして充分だということ。経験者だから言える、これだけですごい幸福感を得られます。イメージとしては結婚前は白黒の世界に住んでいたが、結婚したらカラーになったくらいの違いがあります。(白黒テレビ知らない世代には伝わらないか?)
「家族を持つためにがんばるぞ」「子供のために耐えるのだ」ということが、私にどれだけの力をくれたかわかりません。結婚している人はみなそうだと思います。結婚していない人には「その程度?」と思われてしまうかもしれません。でもそれで充分ときっと思えます。誰かのために生きたい。そんな気持ちが出てきたら実行しましょう。明るく積極的にいきましょう。きっと雲の上で将来のあなたたちの家族が見ていますよ。そういう話もよく聞きます。希望は生きる力の源泉というタイトルの記事も書きました。まさに婚姻は生きる希望を沢山生んでくれるのです。
藤井一 中尉のこと。(1)
2019年06月02日
5月28日は藤井中尉のご命日でした。私は毎週土曜日に(本当は毎日しなければいけませんが)先祖その他の御霊に読誦するので、藤井一中尉にも聞いていただけるように読みました。これは多くの悲劇の中のひとつです。戦争は狂気でありかかわる人間も狂わしてしまいます。私はこの地に縁をいただいたことでこのことを記します。恒久の平和を祈って。
熊谷陸軍飛行学校の藤井一中尉のこと。webで調べてみてくださいと以前書きましたが、調べていないかたのために簡単に書かせていただきます。詳しくはyoutubeで「藤井一」と打てば良く編集されたものがいくつか出てくるので見てください。
藤井中尉(後に2階級上がり少佐)は陸軍航空士官学校卒でしたがチャイナに赴任していたときの怪我でパイロットにはなれず熊谷陸軍飛行学校で軍人勅諭に基づく精神訓話の教官をしていました。生徒には「事あらば敵陣、或いは敵艦に自爆せよ、中隊長(藤井中尉)もかならず行く」いつも言っていました。本来心根は優しくても教育は厳しい中尉は戦況が悪くなるに従って送り出した生徒との約束を果たさなければと苦しみ、家族に内緒で特攻の嘆願を何度も出します。家族もあり教官でもある中尉の嘆願は受理されるはずもないのですが諦めません。やがて妻のふく子さんにそのことが知れます。ふく子さんは中尉の性格を知った上で何度も止めるように説得しますが聞き入れてもらえません。覚悟を決めたふく子さんは中尉が週番司令として一週間宿泊勤務するため家を留守にした日、昭和19年12月14日、一子ちゃん(長女3歳)千恵子ちゃん(次女1歳)に晴れ着を着せ、荒川に向かいます。
河川敷で一子ちゃんと自分を縛って離れないようにし千恵子ちゃんをおんぶしたまま入水し翌日発見されます。
3人紐で結ばれたまま離れず蝋人形のように並んで河川敷に寝かせられていました。このことは軍が徹底的に管理し外部には漏れず。葬儀も極秘で行われたそうです。ふく子さんの遺書には
このことで誰もが藤井には死しかないと思ったそうです。中尉は軍に血書嘆願を出します。今回ばかりは受理されました。事件のため中尉は鉾田陸軍飛行学校へ異動になります。熊谷陸軍飛行学校でささやかなお別れ会が催され学校の幹部や生徒達がお金を出し合って軍刀を送ります。しかし、あの事件のことは公になっていないので誰も口にしませんでした。昭和20年5月28日、第45振武隊として小川彰少尉が操縦する機に通信員として搭乗し出撃「われ突入する」の電信を最後に散華されました。天国で家族みんなとやっと会えたのでしょう。一子ちゃんは手紙を読んでイヤイヤせずに中尉の胸に抱かれたでしょうか。知覧の平和記念館のこの遺書はイラストと文字に藤井中尉の人柄が良く出ています。鹿児島を訪れた際は訪ねてみてください。

一子ちゃん宛ての遺書
冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。それまで泣かずに待っていてください。千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。ではしばらく左様なら。父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴
希望は生きる力の源泉
2019年05月26日

令和の御代を迎えて元号の話題もマスコミ等でよく取り上げられました。元号は西暦の645年、大化の改新という政治改革の際、唐が使っていたものを真似て使い始め701年の大宝以降は制度として使うことになりました。平成まで247の元号があるのに対し、今上陛下が126代天皇です。御代替りで元号が変わるというのは明治になってからのことで、それまでは天皇の御在位中に年号を政治的に変えていたということです。主に天災や凶作その逆の吉事があったとき等で改元されてきたのです。ちなみに247ある元号で期間の最長は『昭和』です。また、使われた漢字は平成までが72、令和の令が初登場で73文字となりました。今回私がこの元号のことについて書いたのは5月1日に行われた「即位後朝見の儀」において、天皇陛下即位の御言葉の後、安倍晋三首相が「国民代表の辞」を次のように述べました。「令和の御代の平安と皇室の弥栄をお祈り申し上げます」
「即位後朝見の儀」という天皇の一番初めの御公務での日本の行政のトップの辞としては、至極真っ当な言葉ではありましたが、皇祖皇宗歴代の天皇がもっともお望みなのは、ご皇室の弥栄より大御宝の安寧なのです。それは上皇の「退位礼正殿の儀」でお述べになられた『明日から始まる新しい令和の時代が、平和で実り多くあることを、皇后と共に心から願い、ここにわが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。』ということにも顕れているし、何より悠久の歴史の中で天照大神の神勅のとおり国民を大御宝(おおみたから)と呼んで慈しみ、その安寧を私心なく祈り続けてこられた天皇という存在と、そのお心を大御心(おおみこころ)と呼んでお慕い申し上げてきた国民との関係が2千年以上続いている。(少なくとも千五百年以上)という事実からわかるのです。
また前置きが長くなってしまいました。改元が過去において吉凶の節目に行われてきたことの意味。それは希望を持つことの大切さを大昔から日本人が知っていたからだと思います。『希望は生きる力の源泉』なのです。
今、病気で苦しんでいても今が経済的に苦しくても、そこに将来の『希望』があれば何とか生きようとする力が出てくるものです。ましてや何処にも不具合がない人の『希望』は夢を実現する力となります。
私がとても悲しいのは日本は若年層の自殺率が大変高いのです。自殺の原因は間違いなく『希望』より『絶望』が勝ってしまったからです。暗いところで希望を見つけることができなかったからです。
他国から観れば、まして自由が制限されているような国から日本を見ればなぜこのようなことになるのかが理解できません。このような現実を天皇陛下、上皇陛下が心を痛められていないはずはありません。
為政者の皆さん。また世の中に与える影響力が大きい医師や教育関係の皆さんにこの文章が届くかわかりませんが、お父さん、お母さん、会社の先輩や上司の皆さんでもよいです。若者に希望を持つことの意味さを語ってください。夢とは違います。『希望』です。希望は小さくても明るければよいのです。真っ暗な心には1本の蝋燭でも充分。令和は、若者の自殺が減って、誰もが明るく前向きに希望が持てる時代になるよう私は祈ります。
繰り返しますが、希望は小さくて良い。目立たない時計の中の1個の歯車でも希望が持てるような心に育ててあげる義務が大人にはあるのです。しかし残念なことに、肝心な大人の世代にそのことがわからない人が多いのです。
新紙幣の人選
2019年04月13日

5年後に新紙幣が発行されることになり1万円札の肖像画が渋沢栄一翁に決まったことは、道徳経済合一論を会社の理念として掲げる弊社としても誠に悦ばしい事です。津田梅子・北里柴三郎といずれも明治期に実際に海外に赴いて学び、帰国後各分野においての日本の礎となった方たちです。私は同じ日本人としてこの明治期の人々を誇りに思います。
と同時に、この明治という崇高な精神を持った人々が活躍した時代以降の日本人の劣化に大変憂い感じているのです。この3人はいずれも氏族や庄屋の家に生まれたことで好機を得て偉業を達成したという側面もありますが。明治という時代を見ると私がよくブログでも書く『気概』や『倫理』というものが現代の日本人と桁違いに優れていたように思えるのです。
以前の5千円の肖像であったキリスト教徒の新渡戸稲造が英語で書いた『武士道』を読むと日本人の中に武士の末裔は少ないはずですがその論語や朱子学を取り込んだ武士道精神というものが広く日本人の心の中に浸透していたことが伺えます。戦争に結び付けては犠牲となったかたがたに申し訳ありませんが、日清・日露・第一次世界大戦で出征したところの日本軍の規律正しさと綱紀粛正の厳格さは高く評価されたものでしたが、これらの戦争を経験した高位の将官のなかからは大東亜戦争の日本軍は皇軍と称するに相応しいような軍紀厳粛が保てていないという声がすでに出ていました。昭和初期までの50年間ですでに日本人の心は劣化していたということです。それは敗戦によってさらに加速して70年以上経ったのですから、昨今もてはやされている日本人らしさなどは相当怪しいものです。
上杉謙信が北条の塩止めで苦しんでいた敵方である武田信玄に塩を送った際の書簡にある「私は塩で戦いはしない剣で戦うのである」という言葉に武士道の精神が表れていて、明治の人はその精神をまだ持っていました。
日本人らしさは封印され解体され忘れ去られました。心の武装解除が行われたわけです。日本独自の倫理観は許されないのでしょうか。「日本を取り戻す」と どこかの総理が言っていましたが。なにをどう取り戻すつもりだったのかまったくわかりません。がんばってもそれが公正に報われない社会は本当にそうなのか、そう感じているだけなのではないか、あるいは『気概』と『倫理』を武器にそういったもに負けないように生きるのが人生の目的なのではないでしょうか。機会の公平は望ましいけれども現実には水平はあり得ません。才能を上回る努力と公正さがあれば、希望は実現します。
100年後、お札が残っているとしたら、その肖像画は東大の入学式でスピーチした社会学者さんでしょうか。私はそんなことも憂いています。
今年も会えた桜花
2019年04月06日

通勤途中の伊弉諾(いざなぎ)神社の桜も満開になりました。
『敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花』
国学者 本居宣長の有名な歌です。(敷島=日本)
宣長のこの歌はいろいろな解釈がされていますが、私の持論では
「日本人の心というものを説明するならば、古(いにしえ)から培われた気質として内面に柔らかく雅び且つ剛健さを秘めており、一旦緩急あれば一気に放出できる」
としたいと思います。それは「匂ふ」は嗅覚だけではない広い意味を持っていること「山桜花」は宣長が愛でていた花であること。国学者として古事記などの古典を研究する中でなぜ桜を愛していたかというところに、私も思うところである桜の奥ゆかしさや儚さの奥にある芯の力強さに日本人の心が重なると感じていたのではないかと思うのです。
桜同様、この歌も近代で翻弄されました。
大東亜戦争末期の国定教科書に載って大和魂を解説する教育に使われました。これは本来の歌の意味よりも、こちらも誤った武士道とあわせて軍事教育に利用されたたというこという言い方が正しいでしょう。
私は、この季節から8月の敗戦の日まで大東亜戦争を思うことが多くなります。おじいちゃん、おばあちゃんっ子の最たる者であった私にとって、祖父母の青春と重なる時代をどうしても思わずにはいられないのです。
そこから始まって、当時の人たちの心も自分に重ねずにいられなくなるのです。
というわけでこれから、夏にかけてはそんなテーマが増えていきますがこれからの若い人に知っていただかなければならない事実、あるいは検証してほしい事柄など書いていきますので、お付き合いください。
3月の花
2019年03月09日

2018年11月10日にアップした晩秋のハイビスカスでしたが、今日また咲いてくれました。外では沈丁花も花をつけました。本当は全ての木々を直植えしてあげたいのですが、庭が狭いので、みな鉢植えです。でも全ての木々が鉢の底を抜けて地面に根ざしていますから移動させようと思っても簡単には動きません。たくましいものです。
通勤途中の伊弉諾(いざなぎ)神社の桜も、今遠くから見ると枝がピンク色に見えます。これは実際にそうなのか私がそう思っているからそう見えるのかはわかりません。でも2月になると色が出てきて3月にはいるとそう見えるのです。桜には毎年挨拶しています。花が咲いているときは「今年もきれいに咲いたね」 散り際には「来年もまた逢おうね」と、相手も期待を裏切らず。しっかり咲いてしっかり散ります。そういう目に見えない力が働いているのですね。
「野の百合を見よ労(つと)めず紡(つむ)がざるなり」(聖書マタイ伝)これも私の解釈だと、何の努力もしなくても野原の1本の百合さえ「生かそう生かそう」という何らか(神=定義は大生命とかサムシンググレートにしておきます)の力が働いている。それに気づきなさいという事でしょう。あんなに力づよく開花する桜、そして短くして散った後は青々とした葉が出てきます。生命を感じます。花咲爺さんの「枯れ木に花を咲かせましょう」というのは桜のことだと思います。一瞬にして全力を出す桜。見習うべきところが多い木です。冬、枯れたかのような姿を見せておいて一気に力強く燃えるように咲く。桜の力か、神の生かす力か。野の百合1本にも与えられているのだから私たちにもあるのでしょう。
神は愛なり
2019年03月02日

私はよく「動物が好きなんですね」と言われますが、ちょっと違います。
動物を飼いたい。というと人間本位になりますが、「生き物のそばにいたい」というほうが私の心情を表す言葉として近いと思います。生きているという事では植物も同じですが、動物のそばにいたいと思うのはより「愛」というものを感じられるからです。若い頃読んだ飯田史彦氏の「生きがいの創造」は私の考えとかなり一致した一冊でした。機会がありましたらぜひお読みください。「人生の価値とはどれだけ愛せたか」だとあります。自分が何故生まれて来たかがよくわかります。
この写真の2羽は今ではもう天に帰っていきましたが、青いほうの「チッチ」が5歳を超えてから緑色の「キュン」をホームセンターで買ってきました。(このような動物売買の方法を私は否定的に考えています)チッチは雛から飼っていて、とても懐いて呼べば指や肩に飛んできます。
専門的にいいコトかどうかはわかりませんがキュンを買ってきて籠の外で会わせてみたら、チッチが一生懸命キュンに素嚢から餌を出して与えはじめました。これがサムシンググレートの与えた本能というものなのでしょうか。愛を見ました。
動物のほうから見せてくれる愛もあれば、自分のほうから湧き出させてくれる愛もあります。だから動物のそばにいたい。愛に大きいも小さいも、尊いも卑しいもないですが、最も近くて大きくて深い愛は、人間の親子の愛ではないでしょうか。特に子供が小さいときに教えてくれる愛に敵う愛はないと思います。
昨今、その最愛の子供を傷つけ、殺してしまう親の話が続いています。三島由紀夫が天国で地団駄踏んで怒っていると思います。自害して50年近く経ちますが彼が生前語っていた「今に日本は、親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺したり、そういう時代になる」という言葉。当然の帰結。
動物を見てください。「神は愛なり」は新約聖書の聖句ですが、私は愛のあるところに神はいらっしゃる(神の定義は大生命とかサムシンググレートにしておきます)と解釈しています。動物と一緒にいると愛により多く接する機会がある、ということはより神に近づいていると思えるのです。だから愛の中で暮らしたい。後日書きますが、あの悲惨と思われる病院も入院してみると神だらけでした。そう、愛に満ちた場所でしたよ。でも動物は先に死んでしまいます。そのとき必ず声をかけます。「次は絶対に人間に生まれてくるんだよ。そしてまた逢おうね」
三島が何故、昨今の親子の状態を予見できたか、敗戦によって体制の変わった日本、体制だけならまだしも目的は日本人の心を変えることでした。唯心論から唯物論の国へ。物質の価値が第一で多く持つものが正しく、少ないものを支配する。ここから子殺しの理由を説明するにはページが足りません。でも、この話を思い出したのはニュースでみた就職活動をはじめる学生へのインタビューでした。わざとそういう編集をしたのでしょうか。企業を選ぶ基準が物質的自己中心的なものばかりでした。これからの日本がどうなっていくか予想が立ちますが、今日はやめておきます。 万物の霊長である人間。神は自分の姿と同じに人間を作ったと言われていますね。その人間に生まれただけで、すごく幸福なことだと私は思うのですが。
心配性なもので突然ですが若人へ
2019年02月23日
私の父は84歳ですが、お蔭様で今でも元気です。父が人に意見するときはよく「俺も心配性だからこんなことを言うんだけれど」と言ってから本題に入っていました。こういうところは親子として似ているなぁと思います。
「私も心配性なものでボーっと生きている全ての日本人に問います」という気持ちでこのブログを書いています。
特に若い人、これから日本で生きていかなければならない(否定的に書いています)人へのメッセージです。
昨年は明治維新150周年でした。前にも書きましたが、150年なんてそんな昔の話じゃありません。せいぜい4~5世代くらい前でしょう。明治維新から50年、今から100年前に第一次世界大戦後の連合国軍として勝利し、パリ講和会議のヴェルサイユ条約に調印しました。連合各国の総意として赤道以北の旧ドイツ領を委任統治(統治してくれるように頼まれた)ので サイパンやパラオ、トラック諸島を日本が統治していたのです。この統治を受けた原住民は日本を悪く言う人は少ないでしょう。日本の統治とはそういうものだったのです。チョンマゲを結って刀を差していた時代から50年で実質的に当時の世界の5大国に日本が入ったのです。今の私たちでは出来ません。
・日清戦争1894年(日本勝利・3国干渉あり反論できず下関条約で得た遼東半島を清に返す 臥薪嘗胆)
・日露戦争1905年(日本薄氷の勝利 ロシアが清から受領していた大連と旅順を租借 勝ったが賠償金なし)
・パリ講和会議1919年(世界で始めて国として人種差別撤廃を明確に主張し多数の賛同を得るも不採択とされる)
オレンジ計画はアメリカが交戦の可能性のある国を「仮想敵国」として対日本戦争計画につけられた名称です。日本以外にも たくさんの国を想定して備える。さすがアメリカしかも計画製作に着手したのが日露戦争直後だというのだからすばらしい。(皮肉です)だだし、オレンジ計画がアメリカと戦わなければならばくなった直接の原因ではありません。彼らは国防として当然の備えをしていたのです。
問題はパリ講和会議での人種差別撤廃の主張、ものを言う有色人種の登場。この後、日本は正当な理由から中国に駐屯していたのに段々色々な出来事に巻き込まれていきます。いつかの選択肢の誤りもありましたが、ヴェノナ文書が示すとおり、一部の人間の意のままにひきずられて行きました。結果は皆さんの御存知の通りです。
無知とは怖いものです。教育とは何でしょうか、うちの娘は聞いてこなかったのですがよく お子さんが「何のために勉強するの?」って聞きますよね。そういう時はぜひ言って上げましょう。「勉強しないと、自分の判断で行動できない人になってしまうよ。人の言うことを聞いて正しいか正しくないか解らない。間違っていても誰かに付いていくしかない人になってしまうよ。」と。
ここの細かい説明は今日は書きませんけれども、この後の敗戦によるウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(WGIP)の基に今の自分たち日本人が生きているということ。過去100年の結果が今だという事。
福沢諭吉の脱亜論知っていますか。極東の3国は欧米から見たら同じような人種や国柄に見られてしまうけれど、とても考え方が違うから、近いからといって特別なお付き合いはしないで世界には日本はこれらの国とは違いますと宣言して欧米寄りの外交を進めていったほうが良い。と私の感覚から言うとそういうものです。
アメリカもようやく気づいて今になって反中国に舵を切りましたがもう遅いです。アメリカが気づいたのに、福沢諭吉の国の日本人がまだ気づいていません。(また皮肉です)私は恐らく長生きしないと自分で思っているのですが、娘が不憫です。日本人は、何を武器に世界に対してどう振舞って生きていくのですか、何で稼ぐのですか?団塊以上のお年寄りが輸出で稼いだ貯金を使い果たしたら終わりでしょう。戦後復興・電子立国・自動車立国の次、まさか誰かに食べさせてもらえるだろうなんて考えているわけないですよね。誰かが考えてくれるだろうなんて思ってませんよね。
残念ながら、もう私たち(あなたたち)は間に合いません。変わるのには何十年も掛かるのです。失われたものを復活させるのは出来ないのです。現実を見てください、他のアジアの国(中国やシンガポール他)の労働者でなく、管理職の給料は、日本人管理職のずっと上に既になっていますよ。こからは優秀な人は日本で働いていると、割に合わない時代です。日本は単純労働の国になり、賃金はもちろん国力も低下すでしょう。WGIP対策をしなかったツケ。競争より共生、皆で並んでゴール! なんていっている間に、出し抜かれました。
毎日のように店員やアルバイトの不道徳な画像が流れて 「対策はないのでしょうか?」 などといってますが笑ってしまいます。方法はあります、かつての道徳至上主義に戻すのです。法律では人間は縛れません。でも悲しいかな人間はどこまで行っても都合が悪いことには気づかないフリをしてしまう。日本は最貧国になってから出直すしかないのかもしれませんね。「自由平等博愛」って絶対の徳の上にしか成り立たないのですよ。学校から取り払われてしまった「二宮尊徳」が言っていたじゃないですか。


藤井中尉のこと。 南九州市知覧町
2019年02月19日

鹿児島に1泊出張に来ました。少々遠回りですが、鹿児島に来たときは、知覧の特攻平和会館に来ることにしています。
「知らないことは恥ずかしい」というタイトルのブログにも書きましたが、今ではここに来なければならないという気持ちで来ています。
特攻を賛美する人がいますが、発案者が申しておりますように悲惨中の悲惨な必死の作戦の外道です。
私はこれを推奨賛美するものではありませんが、知らないご縁があったのです。熊谷で育ち、荒川で遊んできました。大人になってからも、子供を連れて河原でバーベキューや水遊びをしました。

そんな中で、藤井一中尉のことを知ります。藤井中尉のことはたくさんの書き込みがありますのでwebで調べてみてください。何も知らないで荒川で戯れていた自分が恥ずかしくなりました。そんなこともあって、今では藤井中尉が教官をしていた航空自衛隊のある、熊谷市拾六間に自ら望んで住んでいます。
そして、鹿児島に来る時には(実は鹿児島にはお客さんはいません)知覧に藤井中尉に線香をあげさせていただきに来ます。館内撮影禁止ですので上の2枚はパンフレットです。藤井中尉は昭和20年5月28日、第45振武隊として出撃し、見事作戦は成功したということです。(享年29歳) 平和会館では8コーナーに遺影があります。(一番上の段です)

例の有名な子供たちが亡くなた後 一子ちゃん 千恵子ちゃんに宛てた手紙も展示されています。 コピーなのでしょうが、お花の絵、女の子の絵の筆圧まで伝わってくる、今そこで描いたかのようなお手紙は、藤井中尉の子供への気持ち、人柄が伝わってきてネットで見るものと全く違います。 少々遠いですが、是非一度ご覧ください。知覧特攻平和会館 初代館長 故 板津 忠正さんのためにもお願いします。
平和会館の外観と、お線香をあげられるお堂です。観音堂もありますし護国神社でもあるので、何でも良いからとにかく慰霊顕彰したいという残った人々の気持ちが伝わってきます。
これも有名な「とこしえに」の若鷲の像と見つめる母の像、若鷲の像が昭和49年、母の像が昭和61年ですから若鷲一人では可哀そうということもあってお母さんに来てもらったのでしょうか双方の石板には「母の温かいみ胸で御霊の安らかならんとして世界平和を祈念して」「国を思い、父母を思い、永遠の平和を願いがら、勇士は征ったに違いありません」とあります。
特攻隊員は10代後半から20代初めの若者が多かったので、騙されてとか、断れずに嫌々行ったという人もいます、そういう人がいたことも否定しません、しかし多くの若者は自分の命を捨てることで将来の日本人に託し、示したのだと思います。敗戦で自決した人、特攻で命をささげた人の多くが、「後のことは頼んだぞ」と言って逝きます。 頼まれたのは誰ですか。 今を生きる私たちも入っているのではないですか。
プロフィール
代表取締役社長:本間 剛1964年12月生まれ
東京電子専門学校
メディカルエレクトロニクス科卒
趣味 : 読書/仕事
座右の銘 : 吾以外皆吾師カテゴリー
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